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織田 信次(おだ のぶつぐ ? - 天正2年9月29日(1574年10月13日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。織田信定の子。通称は孫十郎。官位は右衛門尉を名乗った。 == 生涯 == 尾張国の織田弾正忠家の当主・織田信定の子として誕生。母は織田良頼の娘。 兄の織田信秀に仕え、初め深田城主となる。天文21年8月15日(1552年9月3日)、信秀の死後に攻勢に出た清洲織田家・織田信友の重臣・坂井大膳らが、織田伊賀守の松葉城と、その並びにあった深田城を攻撃し占拠。伊賀守と信次は人質となった。翌16日、織田信長と信光(信秀の弟で信次の兄)が駆けつけ、萱津の戦いが起こり、大膳側を敗走させ、伊賀守と信次も解放された〔太田牛一『信長公記』 巻首 「深田・松葉両城手かはりの事」〕。 天文24年4月20日(1555年5月10日)、信友が信長によって滅ぼされ、兄の信光が守山城から那古野城へ移ると、後任の守山城主となった。ところが弘治元年6月26日(1555年7月14日)、信次が家臣を連れて龍泉寺の下の松川渡し(現在の庄内川)で川狩りをしていたところ、1人の若者が馬に乗って通りかかった。若者が馬から下りないという無礼な態度だったため、信次の家臣・洲賀才蔵は怒って弓で射殺した。近づいて見てみると、その若者は信長の弟・織田秀孝であり、遺体を見て驚愕した信次はそのまま逃亡した。守山城下は、弟の死に激怒した織田信勝(信長の弟で秀孝の兄)の軍により焼き払われた。信長の異母弟・織田信時が後任の守山城主を務めたが、重臣の角田新五の謀反にあい自害。放浪中の信次は信長に罪を許され守山城主に戻った〔太田牛一『信長公記』 巻首 「勘十郎殿、林・柴田御敵の事」〕。 天正元年(1573年)、浅井長政がお市の方の兄である織田信長と対立し、小谷城が攻め落とされ、長政らは自害し浅井氏は滅亡する。お市の方と茶々、初、江の三姉妹は尾張国守山城主で織田信長の叔父にあたる信次(三姉妹には大叔父にあたる)に預けられたともいわれている(『渓心院文』)〔宮本義己『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ、2010年)74頁〕。 天正2年(1574年)、長島一向一揆攻めに参加。兵糧攻めを受けた一揆勢は降伏しようとするが信長は受け入れず、退城して海から逃げようとする一揆方の人々を鉄砲で射殺させた。追い詰められた一揆勢は捨て身の斬り込みをかけ〔太田牛一『信長公記』 巻七 「河内長島一篇に仰せ付げらるゝの事」〕、この時信次は戦死した〔。 なお、中川重政、津田盛月の祖父とされるが、年代的にやや不自然であり疑問視する見解もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「織田信次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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