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織田 完之(おだ かんし、天保13年9月18日(1842年10月21日) - 大正12年(1923年)1月18日)は、日本の農政家、歴史学者、著述家。 明治期の印旛沼干拓に尽力した。佐藤信淵の著作の編纂者、平将門の研究者としても名高い。著書の総計は、刊行書が180冊、未完書が56冊に達する。 == 経歴 == 三河国額田郡高須村(現・愛知県岡崎市福岡町)に生まれる。織田良右衛門の第5子。2歳の時父と別れ、続いて母を失った。そのため母の実家の岩瀬家に引き取られる。華岡青州の門下である長男敬介とその子敬斎より医学を学んだ。13歳の頃、上地村の早川文啓に漢学の素読や医学を学んだ。さらに曽我耐軒に2年間、その後沓掛村(現・豊明市)の伊藤両村に寄留して勉学した〔『岡崎の人物史』 166頁。〕。 18歳の時、名古屋の松本奎堂に入門、塾長となる。21歳で郷里に戻り中之郷村で医業を開くが、文久3年(1863年)の天誅組の変で松本が戦死すると江戸に出た。武田耕雲斎の筑波挙兵を聞き、ただちに筑波へかけつけ戦いを視察、その状況を『常野兵談』4冊にまとめた。さらに蛤御門の変、四国艦隊下関砲撃事件などに際会し、京都に上り勤王攘夷派の志士と往来する。長州萩の同志に京都の状況を知らせようとして出立したが、岩国で幕府方のスパイと見誤られ、慶応3年(1867年)6月から岩国藩吉川家に入牢となる。 明治2年(1869年)2月、品川弥二郎の尽力で釈放。明治新政府の弾正小巡察に任ぜられた。まもなく若松県(現・福島県)の権小属となる。この時利根川を渡り、関東の風土に接したことがその後の農政に関心を抱く動機になったと言われている。 1871年(明治4年)、大蔵省記録寮に出仕。1874年(明治7年)、内務省勧業寮に異動。内藤新宿農務試験場などに勤務した。同年、大久保利通、松方正義の知遇を得て『農政垂統紀』を著した。 1881年(明治14年)、農商務省の設置に伴い同省農務局に転じ、内外農書の蒐集にあたった。『大日本農史』全6巻、『大日本農政類編』などの編集に従事し自らも『本朝農事参考書解題』全5巻を著した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「織田完之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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