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羅 卓英(ら たくえい、)は、中華民国(台湾)の軍人。字は竜青。号は慈威。国民革命軍、中華民国陸軍の軍人。最終階級は二級上将。保定第8期砲兵科卒業。 同期の空軍総司令官周至柔とともに陳誠の義兄弟・腹心と目される人物であった。日中戦争、太平洋戦争では、第19集団軍総司令、第1路司令長官等を歴任し、各地で日本軍との戦闘を指揮した。 == 事跡 == === 陳誠との交友 === 1914年(民国3年)に大埔県官学堂を卒業し、大埔中学に進学する。しかし軍人の道を志すようになり、1918年(民国7年)に保定陸軍軍官学校を受験、この年は落第したが、その翌年に第8期砲兵科として合格した。この時に同期の陳誠、周至柔と意気投合し義兄弟の契りを結ぶ。1922年(民国11年)に卒業すると故郷に戻り、大埔中学教務主任となる。また、湖山中学を創設した。 まもなく孫文らによる革命に羅卓英も同調し、1923年(民国12年)には潮梅軍参謀に任ぜられる。1925年(民国14年)8月、陳誠の紹介で国民革命軍に加わり、東征(陳炯明討伐)で軍功をあげた。1926年(民国15年)7月からは北伐に従軍し、翌年4月、第21師師長に昇進した陳の要請を受ける形で、同師参謀処処長に任ぜられる。その後も陳・羅の第21師は北伐で孫伝芳軍撃破などに貢献し、1928年(民国17年)春、陳が陸海空軍総司令部警衛司令に昇進すると、羅もその下で警備師の団長を務めた。 北伐終了後、陳誠の部隊は再編により第11師となり、陳は副師長、羅卓英は同師参謀長に任ぜられた。翌年7月、陳は師長に昇進し、羅も第33旅旅長、さらに副師長に昇進した。羅は中下級の軍官を黄埔軍官学校卒業生に次々と入れ替えて戦闘力の向上に努力し、その結果、第21師は1930年(民国19年)の中原大戦など反蒋介石との戦いで顕著な活躍を見せることになる。戦後、陳は第18軍軍長、羅は同軍参謀長にそれぞれ昇進した。翌年に羅は第11師師長となっている。 1931年(民国20年)5月、羅卓英は第11師を率い、江西省での第3次中国共産党(紅軍)掃討作戦に参加した。しかし、紅軍の巧みなゲリラ戦に翻弄されて大きな消耗と損害を強いられている。その後、陳誠の推薦により、羅は第18軍副軍長兼第11師師長に昇進した。1933年(民国22年)には第5軍軍長に昇進し、第4次共産党掃討に参加したが、この時も羅は苦戦している。しかし同年9月の第5次掃討にも参加し、最終的に紅軍を長征に追い込んだ。1935年(民国24年)9月、羅は第18軍軍長に昇進し、翌1936年(民国25年)に両広事変が勃発すると平定桂軍前敵総指揮に任ぜられ、新広西派(新桂系)軍を撃破した。同年9月には広州行営弁公庁主任兼参謀長代理、粤漢鉄路警備司令などを務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「羅卓英」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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