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羅文藻[ら ぶんそう]
羅文藻(ら ぶんそう)は清代におけるカトリック司祭・司教。字は汝鼎、号は我存。中国人最初の司教である。 == 入信と叙階 == 1633年(崇禎3年)、ドミニコ会宣教師ホアン・モラレス(P.Juan B.Morales, 中国名:黎玉範)神父とフランシスコ会アントニオ・デ・サンタマリア・カバレロ(Antonio de Santa Maria Caballero, OFM, 1602-1669, 中国名:利安当)神父が福安で布教活動を行っていた時点で、羅文藻はすでに教会の求道者であった。1633年から1634年(18歲から24歳)の間に、カバレロ神父は羅に洗礼を授けた。洗礼名の「グレゴリウス」その修道会が属する省名である「聖グレゴリウス」省を記念して命名された。その後羅はカバレロ神父に従って伝道師となり、南京での布教活動を目指すが失敗し、再び福建省に戻った。1636年(崇禎8年)に、カバレロ神父に従い台湾で布教活動に従事、1637年(崇禎10年)6月20日にはガスパル・アレンダ(P.Gaspar Alenda, 中国名:雅蘭達)とホアン・デ・サン・マルコス(P.Juan de San Marcos, 中国名:馬若望)の2人の神父に従って福建省から北京へ出発し、そこでイエズス会士アダム・シャール(中国名:湯若望)は彼等を朝鮮への宣教派遣を計画した。だが北京では迫害に遭遇し、3人は護送されて福安に戻り、寧徳で23日間拘留され、その後流刑によりマカオに流された。1639年(崇徳4年)には中国各省で迫害が発生、羅はカバレロ神父に従いフィリピンのマニラに赴いた。1650年にマニラでドミニコ会に入会する。その後、1652年のまでの間に中国とフィリピンを往来して教務を助け、並びにマニラの聖トマス学院で神学と哲学を学習する。1654年5月29日から6月30日までに相次いで剃髪式、侍者、副助祭と助祭叙階の秘跡を受け、同年7月4日にマニラのポブレーテ(Mons. Poblete)司教によって司祭に叙階される。翌年に福建省の故郷に戻った。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「羅文藻」の詳細全文を読む
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