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羊献容 : ウィキペディア日本語版
羊献容[よう けんよう]
羊 献容(よう けんよう、286年 - 322年)は、西晋恵帝の2番目の皇后、のち前趙劉曜の皇后。泰山県南城郡の人。祖父は尚書右僕射の羊瑾(羊祜景献皇后のいとこ)、父は尚書右僕射の羊玄之(字は宏献)、母は孫旂の娘。八王の乱、それに続く永嘉の乱に翻弄され、波乱に富む一生を送った。前趙にて献文皇后された。
賈南風皇后の誅殺後に、母の実家と合族した趙王司馬倫の側近の孫秀により、300年11月、皇后となった。301年1月、司馬倫が皇帝位を簒奪すると恵帝は金墉城に幽閉され、皇后を廃位された。
4月、司馬倫が斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒に敗北すると、恵帝は復位し、再び皇后となったが、孫秀と合族した母の一族は誅殺された。輔政の任に就いた司馬冏は5月、司馬尚を皇太孫とした。302年3月、司馬尚が死去した。5月、清河王司馬遐の子の司馬覃が皇太子となった。12月、司馬冏が長沙王司馬乂に敗れ殺された。司馬乂が輔政の任に就いた。
303年8月、司馬穎と司馬顒が、羊玄之らの討伐を名目に洛陽を攻撃した、恵帝は司馬乂を大都督とし防御した。9月、父の羊玄之が死去した。11月、司馬顒の将軍の張方が用水路を決壊させ脱穀用の石臼が使用不能となり、洛陽は食料不足になって、東海王司馬越は司馬乂を捕らえて張方に引き渡した。304年1月、張方は洛陽を略奪して長安に戻り、司馬乂は処刑され、司馬穎は丞相となった。2月、再び皇后を廃位され金墉城に幽閉された、司馬覃が清河王に戻された。3月、鄴の司馬穎が皇太弟となった。
7月、恵帝が司馬穎の討伐の詔を発し、三たび皇后となり、司馬覃が再び皇太子となった。恵帝の親征軍は蕩陰で敗北し、侍中嵆紹が恵帝をかばって死んだ。恵帝も頬に傷を負い、三本の矢を受けた。8月、張方が再び洛陽に入り、三たび皇后を廃位され、司馬覃も再び皇太子を廃された。鄴の司馬穎は王浚の軍に敗れ、恵帝と共に洛陽に逃げ延び、張方が出迎えた。鄴は鮮卑兵に大略奪を受けた、非漢族の中原跋扈はこの時から始まる。
11月、張方が恵帝を無理やりに長安へ連れて行った。洛陽は張方の軍に大略奪を受けた。洛陽には留台が置かれ、朝廷の一部が残された。司馬顒が四たび皇后を復位させた。12月、予章王司馬熾が新たに皇太弟となった。司馬顒は都督中外諸軍事となった。305年、皇甫昌が司馬越の命令と詐称して、金墉城の皇后に張方を討伐し恵帝を洛陽に迎える命令を出させたが、未遂に終わった。4月、張方が四たび皇后を廃位した、司馬顒が勝手に尚書の田淑に羊庶人に死を賜る詔書を留台に送った。留台は長安の恵帝に上奏して、羊庶人は死を免れた。
11月、立節将軍の周権が恵帝が洛陽に帰還するといって、五たび皇后を復位させた。洛陽令の何喬が周権を殺して五たび皇后を廃位された。
306年5月、東海王司馬越の武将の祁弘に司馬顒と司馬穎は大敗し長安を放棄した。長安は祁弘の率いた鮮卑兵に大略奪された。6月、恵帝は洛陽に帰還し、六たび皇后に復位した。10月、司馬穎は処刑された。11月に恵帝が死去し、六たび皇后位を去った。皇太弟が皇帝になれば皇太后の称号が得られず、何の権限もないため、司馬覃を連れて宮殿に乗り込み皇帝にしようとしたが侍中の華混に阻まれた。恵皇后と称号が与えられた。予章王司馬熾が懐帝となった。12月、司馬顒が殺され八王の乱が終わった。
307年12月、東海王司馬越が司馬覃を金墉城に幽閉し、308年2月に殺害した。
311年6月、洛陽が前趙劉曜らの攻撃を受けて陥落し、恵羊皇后は懐帝と共に平陽に連れ去られた。
その後、劉曜が皇帝になり、羊皇后に「私は司馬家の人物(恵帝)と比べて、どうだろう?」と訊いた。羊皇后は「あなたと同じと言えるか?陛下は開国の聖主、彼は亡国の暗夫、一人の妻と一人の子と自分自身の三人さえ、庇う事が出来なかった。帝王の尊位にありながら、妻子を凡人の手で辱められるなんて。あの頃のわたしは本当の人生に思い至らなかった、今日の事が再びあるなんてことは。私は高位高官の家に生まれ、常々世間の男子はそんな者ばかりと思っていた。あなたの妻になってから、天下にはあなたのような立派な男がいることを初めて知った」と答えた。
劉曜の妻となった羊皇后は、太子の劉煕ら三子を生んだ。劉曜には正妻の卜氏との間に劉胤という優秀な世子がいたが、靳準の乱で、行方不明になった。318年、劉曜が即位すると、皇后に立てられ(7度目)子の劉煕が皇太子となった。羊献容は劉曜の寵愛をうけて、後宮だけでなく、政治にも参加した。羊献容が死去すると劉曜は巨大な陵を作った。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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