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『美しく青きドナウ』(うつくしくあおきドナウ、)作品314は、ヨハン・シュトラウス2世が1867年に作曲したワルツ。『美しき青きドナウ』『美しく碧きドナウ〔 『名曲解説全集 第三巻 管弦楽曲(上)』(音楽之友社、昭和34年) p.325〕〔 團(1977) p.86〕』などと日本語表記される場合もある。邦題は原題のうちの「An」を無視したものであり、正確に訳すと『美しく青きドナウのほとりに』となる〔加藤(2003) p.146〕。また、オーストリアでは正式な曲名ではなく『ドナウ・ワルツ』と呼ぶことが多い〔 河野(2009) p.76〕。 シュトラウスの「十大ワルツ」のひとつとされ、その中でも最高傑作との評価を受けている。オーストリアでは公式なものではないが「第二の国歌」とも呼ばれ、何事につけても演奏される〔 河野(2009) p.73〕。大晦日から新年に代わるとき、オーストリアのテレビ各局はシュテファン大聖堂の鐘の音に続いてこの曲のメロディーを流し、またウィーンフィル・ニューイヤーコンサートでは、3つのアンコール枠のうちの2番目として必ず演奏される〔。 == 概要 == 1866年の普墺戦争で大敗し、失望の底に沈んだウィーン市民を慰めるために作曲される。シュトラウスに作曲を持ちかけたのは『ウィーン男声合唱協会』の指揮者ヨハン・フランツ・フォン・ヘルベックだった〔。当初シュトラウスは声楽曲を書いたことがなかったために断ったが、しかし執拗なヘルベックの求めに折れて作曲を引き受けることになった〔 『名曲解説全集 第三巻 管弦楽曲(上)』(音楽之友社、昭和34年) p.327〕。シュトラウスはかつて読んだことのあるの詩の一節を思い浮かべ、ドナウ川についての作品とすることに決定した〔。まず題名を『美しく青きドナウ』に決定したシュトラウスは、このことを詩人に話し、改めてドナウ川を讃える詩を書いてもらい、それに乗せる形で作曲することにした〔。 このような経緯で男声合唱曲として書かれ、1867年2月15日にディアナ・ザールで初演されたが、「くよくよするなよ!」「悲しいのかい?」などといった歌詞が図星を指したためか、反響は好ましいものではなかった〔。しかし1867年のパリ万博の会場における演奏では一転して高い評価を受け、合唱なしの管弦楽用としても各地で演奏されるようになった〔。シュトラウス自身はこの曲をさほど評価していなかった節があるが、やがて「オーストリア第二の国歌」「シュトラウスの最高傑作」としての名誉を博するようになった。当時の音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックは、この曲を「愛国的な国民の歌」と称えた〔。 シュトラウスと親交の深かったヨハネス・ブラームスは、後年シュトラウスの妻アデーレから彼女の扇子へサインを頼まれた際、この曲の一節を五線譜で書き「残念ながら、ヨハネス・ブラームスの作品にあらず」と脇に書き添えた〔〔渡辺(1989年4月) p.19〕。 なお、本作品の23年後の1890年に同じくシュトラウスが作曲したワルツ『』の冒頭部分などにおいて、本作品で登場するメロディがいくつか引用されている。 本作品の作曲から100年後の1967年、オーストリアでは記念銀貨が発行された。額面は50オーストリア・シリング。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「美しく青きドナウ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 The Blue Danube 」があります。 スポンサード リンク
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