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美吉野運動競技場[みよしのうんどうきょうぎじょう]
美吉野運動競技場(みよしのうんどうきょうぎじょう)は、かつて大正後期から昭和初期または中期にかけて奈良県吉野郡上市町(現・吉野町)に存在した複合運動施設。美吉野グラウンド、美吉野グランド、美吉野運動場とも。本項では、消失した現在に至るまでの変遷についても述べる。 == 美吉野運動競技場 == 吉野鉄道の社長・阪本仙次が欧米に学び、大正時代後期(大正13年または15年か)に吉野郡上市町(現・吉野町)の中の島と呼ばれた吉野川(紀の川)の中州に建設された〔当時の上市町が中の島の1町1反余の野原を吉野鉄道に無償で貸与していたもので、吉野鉄道が運動競技場として数十万円をかけて整備していた。のちに吉野鉄道が、現在の吉野駅までの延伸計画のさいには北岸ルート(現・大和上市駅の設置)の見返りとして土地を会社に寄付した(吉野町史)〕。設計者は後に花園ラグビー運動場(現・東大阪市花園ラグビー場)の設計にも携わる中尾保である〔『近畿日本鉄道100年のあゆみ』 p. 127〕。日本陸上競技連盟公認の陸上競技場で、400メートルトラックとスタンドを持ち、トラックの他には相撲場、硬式野球場、2面のテニスコートがあった。またラグビー、サッカー、バスケット、バレーボールなどの施設具を有し、シャワーやトイレ、売店などが入った建物(宿泊所)があった〔吉野町史〕〔写真集〕。1935年(昭和10年)に吉野鉄道は大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道の源流の一つ)と合併し経営権が移ったことにより、あまり使われなくなったようである。 当時、日本三大陸上競技場の一つとされ谷三三五、吉岡隆徳、織田幹雄、南部忠平、人見絹枝、中西みちなど日本を代表する陸上選手らが同地で開かれた競技大会に参加した〔〔。同地で開かれた大会としては年間行事として「全国女子陸上競技選手権大会(日本女子オリンピック大会)」、「全国学童選手権大会(学童オリンピック)」、「関西大学対抗陸上競技大会」などがあり、国際競技大会も開かれたという〔。また陸上競技場として存続した間に15種目にわたる日本新記録が作られた。早稲田大学や東京文理科大学の合宿所としても利用された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「美吉野運動競技場」の詳細全文を読む
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