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美智子さまブーム : ウィキペディア日本語版
ミッチー・ブーム

ミッチー・ブームとは、正田美智子(当時)が1958年昭和33年)から1959年昭和34年)にかけて、日本皇太子明仁親王(当時)と婚約して結婚することにより生じた社会現象。
平民である美智子が、皇太子との「テニスコートでの自由恋愛」により結婚に至ったこと〔衆議院会議録情報 第31回国会 内閣委員会第5号 1959年2月6日)。この国会答弁で宮内庁長官・宇佐美毅は、テニスは一、二度でそれ以上の交際はなく、「世上で一昨年あたりから軽井沢で恋愛が始まったというようなことが伝えられますが、その事実は全くございません」、「世上伝わるようなうわついた御態度というものは、私どもは実際において全然お認めすることはできません」と答弁し、報道されている「自由恋愛」は、事実に反する誤報であったと明確に否定している。〕、美智子がカトリックミッション系大学出身者であったことなどをマスメディアが報道し、大きな話題となる〔日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【天皇制について】: 「殿下の『恋愛』の現代史的意義 (『THIS IS 読売』1993年7月号)〕。これを契機にテレビが普及するなど、第二次世界大戦後の日本の経済ファッションマスメディアなどの領域で、社会に大きな影響を与えた。
== 概要 ==

=== 婚約 ===

第二次世界大戦終結後11年が経過し、1956年昭和31年)の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し、景気が上昇していた中で、宮内庁1958年昭和33年)11月27日皇室会議日清製粉社長正田英三郎の長女・美智子を皇太子妃に迎えることを可決したと発表する。
1957年(昭和32年)に聖心女子大学英文科を卒業していた美智子は、その年の夏、皇太子と軽井沢で親善テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子は美智子の人柄に惹かれて自ら妃候補にと言及したと報道され、皇族五摂家といった特定の華族から選ばれる皇室の慣例を破り、初の平民出身皇太子妃として注目の的となった〔一方で、香淳皇后梨本伊都子秩父宮勢津子妃松平信子ら旧華族出身者はこれを良しとせず、果てはその意を受けて右翼を動かし、結婚反対運動を起こそうとした者もいたという(入江相政日記より)。〕。昭和天皇は「皇室に新しい血を」という意向だったとされている〔日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【天皇制について】: 「新天皇とともに開く『平成』 」(1989年1月9日読売新聞朝刊)〕。
これに対して正田家は家柄が違い過ぎるとして当初、固辞の姿勢を見せたが、皇太子の「柳行李一つで来てください」との言葉が決め手となって決心を固めたと報道された。しかしこの報道は事実ではなく(「ご学友」橋本明の創作)、のち2001年平成13年)に行われた天皇の記者会見では「このようなことは私は一言も口にしませんでした」と強く否定、プライバシーと尊厳の重要性に言及し、報道のあり方に疑問を投げかけている〔宮内庁: 「天皇誕生日に際する記者会見 」で「プライバシーを守ることは、他人の尊厳を守ることであり大切なことです。また、プライバシーに関する誤った報道は、これを正すことは非常に難しく、時には、長期間にわたって誤った報道が社会に流れていくことになります」と述べている(2001年12月18日)〕。
美智子がテニスで着ていた白地のVネックセーターや白い服装〔「ご成婚ブーム 」(asahi.com:マイタウン東京、2005年11月20日)〕、身につけていたヘアバンド、カメオのブローチ、ストール、白の長手袋などのいわゆるミッチースタイルと呼ばれたファッションが大流行し〔広告景気年表: 「1958年 」(電通 消費者情報トレンドボックス 広告経済関連データ)
ファッション小史 戦後昭和史 )〕、ヘアバンドは「ミッチーバンド」と名付けられている。 宮内庁で行われた11月27日の婚約記者会見で美智子が「とてもご清潔でご誠実なご立派な方で心からご信頼申し上げ」と皇太子の印象を述べた発言が大きな注目を集め、「ご清潔でご誠実」は、流行語になった。
マスメディアは「昭和のシンデレラ」あるいは「世紀のご成婚」と銘打ち、美智子の生い立ちや、皇太子との交際などを詳報、週刊誌1956年(昭和31年)の『週刊新潮』創刊をきっかけに、1957年(昭和32年)創刊の『週刊女性』(主婦と生活社)、1958年(昭和33年)の『週刊女性自身』(光文社)、『週刊明星』(集英社)、『週刊大衆』(双葉社)、『週刊実話』などの創刊が相次ぐ「週刊誌ブーム」が起きており、週刊誌・女性週刊誌の報道競争が過熱していた。「ご成婚」は週刊誌メディアにとって格好の題材・素材となって週刊誌の売り上げが伸び、さらに週刊誌記事を通じて皇室情報が一般人に浸透することとなった〔高橋呉郎「ミッチー・ブームと週刊誌 」(『女性自身』草創期の編集者「自著を語る」文藝春秋『本の話』2006年2月号)〕。
これら社会現象は婚約発表のその年に、美智子の愛称「ミッチー」に由来して「ミッチー・ブーム」と名付けられ、以後、この呼称が社会的に定着。同年12月1日に日本銀行が一万円券(いわゆる一万円札)を発行、股上が極端に短い新作パンティースキャンティー」を発表するなど女性下着ブームの火つけ役となって女性下着の歴史に画期をなしたファッションデザイナー鴨居羊子が『下着ぶんか論 解放された下着とその下着観』を上梓〔鴨居『下着ぶんか論 解放された下着とその下着観』凡凡社、1958年〕、インスタントラーメンの元祖チキンラーメンが発売され、またロカビリーブームが起こるなど、この年に多くの人々が景気の上昇を実感する時代を迎え、本格的な大量消費社会の入口にさしかかっていたことが、経済的にミッチー・ブームを支える背景となっていた〔「高度成長の時代 」(藤川HP > 戦後の日本経済)〕。また首都圏広域の電波送信を可能にする東京タワー12月23日に完成、マスメディアの領域ではテレビ放送時代の幕開けの準備が整う。このような時代背景の中で、ミッチーブームは明るい話題として取り上げられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ミッチー・ブーム」の詳細全文を読む



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