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ウィリアム・ネルソン・ジョイ(、1954年11月8日 - )、通称ビル・ジョイ()は、アメリカ合衆国のコンピュータ科学者でありコンピュータ技術者。KPCB パートナー。元サン・マイクロシステムズ社 チーフサイエンティスト。BSD開発の初期にまとめ役として働き、テキストエディタを開発したことで知られている。 漢字を勉強したことがあり、来日した際のサインなどで、名前を「美流上位」と書いている〔『Life with UNIX』邦訳版 p. 350〕。 == サン以前 == ミシガン州デトロイトに生まれる。両親は学校教師。1971年にミシガン大学に入学、1975年に電気工学の理学士号を取得した。卒業後はカリフォルニア大学バークレー校に入学。1979年に電気工学と計算機科学の修士課程を修了している。バークレーでの指導教授は。 同校は1974年に AT&T からライセンスを取得し UNIX の導入を始めており、折良く入学してきたジョイは早速 UNIX の改良に取りかかった。ファブリーの (CSRG) でジョイはBSD開発のまとめ役として働いた。 からは 、、、、、 などが生まれている。アップルの OS X もBSDをベースとしている。 ジョイの最大の貢献としてはとCシェル(csh)の開発がある。ジョイのプログラマとしての才能は伝説的であり、をある週末だけで書き上げたと言われている。ジョイ自身はこれを否定している〔〕。他にも誇張された逸話がある。ノベルのCEOだったエリック・シュミットは、PBSのドキュメンタリー「 2.0.1」でのインタビューで、ジョイがBSDカーネルを週末に1人だけで書き直したと述べたことがある。 「」の記事によれば、1980年代初めごろ国防高等研究計画局は BBNテクノロジーズ (BBN) がBSDにTCP/IP機能を追加する契約を結んだ。ジョイはBBNの開発したプロトコルスタックをBSDカーネルに組み込む作業を指揮するよう命令されたが、彼はBBNのTCP/IP実装を全く評価していなかったためそれを拒んだ。そこでジョイは独自の高性能TCP/IPスタックを書き上げた。は次のように述べている。 BBNはTCP/IP実装という大きな仕事を請け負っていたが、BBNの実装はうまく動作せず、ジョイのものは動作した。そこで大きな会議が開かれ、Tシャツ姿の大学院生であるジョイがそこに出席し、BBN側が「君はこれをどうやって成し遂げたんだ?」とたずねた。ジョイは「簡単さ。プロトコルを読んで、コードを書いただけさ」と応えた。 ただし、当時BBNで働いていたロブ・ガーウィッツはこの話を否定している〔〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビル・ジョイ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Bill Joy 」があります。 スポンサード リンク
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