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羽田 孜(はた つとむ、1935年8月24日 - )は、日本の元政治家。民主党顧問。 衆議院議員(14期)、内閣総理大臣(第80代)、農林水産大臣(第9代、第12代)、大蔵大臣(第88代)、外務大臣(第120代)、新生党党首、太陽党党首、民政党代表、民主党幹事長、同党特別代表、同党最高顧問などを歴任。 == 来歴・人物 == === 生い立ち === 東京府東京市蒲田区(現東京都大田区蒲田)にて羽田武嗣郎・とし子夫妻の長男として生まれる。父武嗣郎は朝日新聞記者を経て衆議院議員となった人物であり、母とし子は志賀高原を命名した長野電鉄の創設者神津藤平の娘である。名付け親は、武嗣郎の東北帝国大学時代の恩師に当たる阿部次郎で、「孜孜(しし)として働く」から取られた。 1942年(昭和17年)に第二延山小学校に入学するが、戦争が激しくなったため、1944年(昭和19年)3月に父の郷里である長野県に疎開する。1946年(昭和21年)に、父武嗣郎が公職追放となる。1951年(昭和26年)に、上田第二中学校に入学する。この頃から議論好き、世話好きの片鱗を見せ始める。長野県上田高等学校を受験するが不合格となり、東京の成城学園高等学校に入学。1954年(昭和29年)に成城大学経済学部に進学する。大学3年生の時に、ハンガリー動乱で亡命してきた学生をかくまったことがある。 1958年(昭和33年)に、成城大学を卒業する。父と同じくジャーナリズムに憧れ、朝日新聞、日本経済新聞などを受験したが失敗。父のコネで、小田急バスの試験を受け入社した。小田急バスでは、吉祥寺営業所を経て観光課に配属される。観光課では企画を担当し、春夏秋の観光シーズン以外に顧客を掘り起こすため、武嗣郎の友人である野田宇太郎の協力を得て、「文学散歩」「史跡散歩」などに力を入れた。その他に学生、老人、会社などの慰安旅行や幼稚園の遠足や学校の修学旅行、更には皇族の旅行を企画し、時には車掌も務めた。1965年(昭和40年)に綏子夫人と結婚する。羽田は父親の後継者となって政界入りする気持ちはなかったが、1963年(昭和38年)に武嗣郎が脳出血で倒れたため、後援会から政界入りを打診され、1968年(昭和43年)10月に小田急バスを退職する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「羽田孜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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