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翁照垣[おう しょうえん]
翁 照垣(おう しょうえん)は、中華民国の軍人。第一次上海事変・日中戦争などで日本軍と何度も戦闘を交えた軍人である。また、福建事変や両広事変にも加担するなど、反蒋介石の傾向も強い人物であった。名は騰輝だが、字の照垣で知られる。 == 事績 ==
=== 第一次上海事変での活躍 === 16歳のときから軍に入隊している。1917年(民国6年)の護法運動においては、陳炯明率いる粤軍(広東軍)に加入した。その後も順調に昇進を重ね、1923年(民国12年)、粤軍第1支隊司令に任ぜられている。1925年(民国14年)、一時辞職し、香港で中国青年党に加入した。〔徐主編(2007)、1253頁。〕〔劉主編(2005)、1938頁。〕〔東亜問題調査会編(1941)、24頁。〕 1926年(民国15年)秋、日本に留学して陸軍士官学校中国学生隊第20期で学ぶ。1929年(民国18年)秋、卒業してフランスに渡り、ヴィラクブレーのモラーヌ・ソルニエ飛行学校に入学した。1931年(民国20年)春、同校を卒業、帰国している。広東保安第4団団長に任ぜられ、6月、警衛軍第88旅旅長に昇進して、杭州に駐屯した。翌月、蒋光鼐・蔡廷鍇らが率いる国民革命軍第19路軍で第78師第156旅旅長に任ぜられる。11月、上海市閘北に駐屯し、上海各大学生軍訓副主任も兼ねた。〔〔〔 1932年(民国21年)1月、第1次上海事変(「一・二八淞滬抗戦」)が勃発すると、翁照垣は自らの部隊を率いて日本軍を相手に戦う。翁は真っ先に日本軍に対して火蓋を切り最も頑強に抵抗を試みたとされる。事変後、呉浙に移駐し、この戦線でも善戦して「呉浙保衛の英雄」と謳われたという。〔東亜問題調査会編(1941)、24-25頁。〕9月に翁は辞職し、南洋で中国航空協会を結成しようとしたが、果たせなかった。1933年(民国22年)1月、青天白日勲章を獲得している。同年には、東北軍第117師師長、華僑救国軍総指揮、全国航空建設委員会委員、第67軍副軍長等の職を歴任した。〔〔〔東亜問題調査会編(1941)、25頁。〕
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「翁照垣」の詳細全文を読む
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