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習 禎(しゅう てい、生没年不詳)は、後漢末期から三国時代にかけての政治家。蜀(蜀漢)に仕えた。字は文祥。荊州襄陽郡の人。息子に習忠。妹に龐林の妻(『襄陽記』)。孫に習隆。 == 概要 == 「楊戯伝」が引く『襄陽記』によると習禎は洒脱な人物で、談論に巧みであり、龐統に次ぎ馬良より上の名声を持っていたとある。 211年、荊州より劉備に付き従って益州に入り、雒県・郫(ヒ)県の令を経て広漢太守に昇進した。 他に詳しい事績は伝わっていないため、伝は立てられていない。 季漢輔臣賛には、善良で広く志を伸ばし、楚の地の優れた人物だったと評されている。 息子の習忠も名声があり、後に尚書郎の位まで昇った。習忠の子の習隆は歩兵校尉となり、宮中の書物の校勘にあたった。 なお、。『襄陽耆旧記』(『襄陽記』)や『漢晋春秋』の著者である東晋の習鑿歯は、この習禎の子孫である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「習禎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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