|
耶律 履(やりつ り、1132年 - 1192年6月)は、金の政治家。字は履道。『金史』列伝第三十三では、移刺 履(いら り)と呼ばれる。 遼の皇族である東丹懐王耶律倍の8世の孫で、元の政治家耶律楚材の父である。耶律聿魯の子、耶律弁才、耶律善才、耶律楚材の父。自ら忘言居士と号した。 ==概要== はじめは、金の興平軍節度使をつとめた伯父の耶律徳元の養子となった。後に伯父が実子の耶律震が生まれたが、従弟の耶律震が相続を放棄したので、耶律履が伯父の家督を相続した。 科挙に及第して、国史院、翰林院、礼部を歴任して、歴史を編集する修史官を兼務していた。その間に『遼史』のもととなる原本の編纂に携わっていた。同時に承奉班祗侯に封じられた。 一時的に、薊州刺史として赴任したが、世宗の勅命で、便州刺史に転任した。まもなく召還されて礼部侍郎、尚書を経て、参知政事に昇進した。最終官職は尚書右丞である。 1192年夏6月に61歳で病没した。諡号は文献である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「耶律履」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|