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耶律沙[やりつ さ] 耶律沙(やりつ さ、生年不詳 - 988年)は、遼(契丹)の軍人・政治家。字は安隠。遙輦氏の子孫。 == 経歴 == 応暦年間、南府宰相に累進した。景宗が即位すると、総領南面辺事をつとめた。保寧8年(976年)、北宋が北漢を攻撃してくると、沙は軍を率いて北漢を救援し、功績を挙げて守太保の位を加えられた。9年(977年)10月、帰順した党項の首長の可醜と買友を景宗に面会させた。 乾亨元年(979年)、北宋が再び北漢を攻撃すると、沙は都統となり、契丹軍を率い間道を通って白馬嶺にいたり、大澗(谷)で宋軍と遭遇した。沙は諸将とともに後詰めを待って戦おうとしたが、冀王耶律敵烈や監軍の耶律抹只らがすばやく急戦をしかけたため、沙は開戦を止めることができなかった。耶律敵烈らは先鋒として谷を渡ろうとして、渡りきらないうちに北宋の郭進の軍の攻撃を受けて敗走した。耶律敵烈とその子の耶律哇哥、沙の子の耶律徳里、令穏の都敏、詳穏の唐筈ら5将が戦死した。北院大王の耶律斜軫の兵が到着して、大量の矢を放って援護したため、郭進は兵を退き、沙は命長らえた。 沙が太原の救援に向かおうとしたところ、北漢の駙馬都尉の盧俊が逃亡してくるのに出会い、太原はすでに陥落したと言われたので、沙は軍を返した。宋軍が北漢討滅の余勢を駆って燕雲十六州奪回に乗りだし、この年の7月に契丹軍と宋軍は高梁河の戦いで衝突した。沙の契丹本軍は宋軍の攻勢を受けて潰走寸前に追い込まれたが、耶律休哥と耶律斜軫が両翼を進めて宋軍を迎え撃ち、撃破した。沙はこの戦勝により以前の敗戦の過を許された。 この年の9月に韓匡嗣の下で北宋の鎮州を攻撃したが、敗戦したため、景宗は沙を処刑しようとしたが、睿智蕭皇后のとりなしで事なきをえた。再び北宋に対する征戦に従軍し、劉廷譲と李敬源の軍を破った。統和6年(988年)5月、死去した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「耶律沙」の詳細全文を読む
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