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耶律義先[やりつ ぎせん] 耶律義先(やりつ ぎせん、生没年不詳)は、遼(契丹)の軍人・政治家。 == 経歴 == 南府宰相・燕王の耶律瑰引の次男として生まれた。于越耶律仁先の弟にあたる。容姿が美しく、態度がおごそかであった。重熙初年、祗候郎君班詳穏に補任された。13年(1044年)、興宗が西征すると、義先は十二行糾都監をつとめて戦功を挙げ、南院宣徽使に転じた。 ときに蕭革が同知枢密院事として専権をふるっていたので、義先はこれを憎んで興宗に訴えたが、聞き入れられなかった。別の日に興宗が宴席で群臣とすごろくをして、負けた者は罰杯を飲むこととなった。義先は蕭革と向かい合ったので、憮然として「臣は賢者を進めて不肖をしりぞけることができないとはいえ、どうして国賊とすごろく遊びができようか」と言った。興宗は「卿は酔っているのだ」と止めたが、義先はののしってやまなかった。興宗は激怒したが、皇后のとりなしで事なきをえた。翌日、興宗は「義先は無礼なので、左遷すべきだろう」と言ったが、蕭革が「義先はもともと忠実な人物であって、いま酒による失敗があったとしても、誰が過ちをとがめましょうか」と答えたので、興宗は蕭革を忠実な人物と評して、ますます信任した。義先は鬱屈して楽しまなかったが、朝議や政務の上で妨害されることはなかった。再び興宗の前ですごろくがあり、義先は1位を取ってみせたので、興宗は驚いた。 16年(1047年)、義先は殿前都点検となった。17年(1048年)、行軍都部署となり、蒲奴里を攻撃した。18年(1049年)、蒲奴里の首長の陶得里を捕らえて凱旋した。功績により南京統軍使に転じ、武昌郡王に封じられた。統軍司の余剰金を貧民にふるまうよう上奏した。兵器を充実させ、民力の休養につとめた。21年(1052年)、惕隠に任じられ、富春郡王に進んで、死去した。享年は42。清寧9年(1063年)、許王の位を追贈された。 弟に耶律信先があった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「耶律義先」の詳細全文を読む
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