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セルビアの聖サワ (; 1175年頃 – 1235年1月14日〔宮本憲「サヴァ」『キリスト教人名辞典』収録(日本基督教団出版局、1986年2月)、617頁〕) は、セルビアの大主教であり、正教会の聖人。セルビア正教会で最も敬愛される重要な聖人である〔St. Sava I, enlightener and first archbishop of Serbia (1235) 〕〔田中一生、森安達也「サバ(セルビアの)」『東欧を知る事典』収録(平凡社, 2001年3月)、158-159頁〕。日本正教会では「セルビヤの大主教聖サワ」と表記されるが〔『正教会暦 2011年』6頁、日本ハリストス正教会教団〕、セルビア語から「聖サヴァ」とも表記し得る。祝日は1月12日、8月30日〔。 == 生涯 == === 誕生から修道誓願まで === ブルガリアのタルノヴォにおいて〔J.フィルハウス「サヴァ(サバス)」上智学院新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典』2巻(研究社, 1998年1月)、1047頁〕、ステファン・ネマニャの息子として、俗名ラストゥコ()として生まれる。3人兄弟の末っ子のラストゥコは温和で穏やかな性格で読書を好み、他の貴族たちと同様に遊ぶことを好んだ2人の兄(ヴカンとステファン)とは対照的であった〔St Sava of Serbia 〕。 15歳にして父の統治を助けるようヘルツェゴビナの行政の任を与えられるが、全く統治に興味を持てなかったラストゥコは、神への完全な献身への願いを抱いていた〔。そうした時、父(ステファン・ネマニャ)のもとをアトス山の修道士たちが財政支援を求めて訪れた。かれらが語った修道院の素晴らしさに感銘を受けたラストゥコ〔は密かに、正教会の修道院が多数存在するアトス山に赴き、聖パンテレイモン修道院で、修道名サワとして修道士となった。父は息子を連れ戻そうと兵を差し向けたが、兵がアトス山に到着した時には、すでにサワは修道誓願を終えたところだった〔。 サワは謙虚であり、修道院で祈りと斎に勤しみ、その上で読書に励んだ〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サワ (セルビア大主教)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Saint Sava 」があります。 スポンサード リンク
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