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肇慶市(ちょうけいし)は中華人民共和国の広東省に位置する地級市。 == 歴史 == 秦以前の肇慶は百越の居住地であり、秦代の前214年に始皇帝の百越討伐後は肇慶は新設された南海郡四会県の管轄とされた。その後南越国が成立すると、趙佗により蒼梧国が設置され、南越国の属国とされた。 前漢が南越国を滅亡させると、現在の肇慶市中心部及び高要市地区に高要県を設置、蒼梧郡の管轄とされた。589年(開皇9年)、隋朝は端州を設置、高要県、端渓県などの9県を管轄した。607年(大業3年)、州制の廃止に伴い信安郡と改称されたが、唐初武徳年間には再び端集に戻されている。742年(天宝元年)、現に一旦高要郡とされたが758年(乾元元年)に再び端州とされた。1101年(元符3年)、宋朝は端州に興慶節度使を設置、1113年(政和3年)には端州は興慶府に改編、更に1118年(重和元年)には 肇慶府と改称されている。 1564年(嘉靖43年)、明朝は両広総督府を広西省梧州より移転、1746年(乾隆11年)に清朝により広州に移転するまでの182年間、嶺南の政治的中心として発展した。 明末の1646年(隆武2年)、朱由榔が肇慶府署を行宮として南明皇帝として即位し、反清運動の拠点とされたことがある。清代では省と府の中間行政組織として道制が施行され、肇慶地区には分巡肇羅道、分巡肇陽羅道、分巡広肇羅道などが設置されたが、道台は肇慶とされた。 1911年(宣統3年)、辛亥革命が発生すると、肇羅郡政分府、肇陽羅鎮守使署、西北郡綏靖委員行署などが肇慶に設置された。1936年(民国25年)、広東省第二行政督察専員公署が設置され12県を管轄した。 中華人民共和国が成立すると肇慶市人民政府及び肇慶地区行政公署の駐在地とされた。1988年3月、肇慶市が省管市に昇格すると、端州、鼎湖の2区、高要、広寧、四会、新興、羅定、雲浮、徳慶、郁南、封開、懐集の10県を管轄した。1995年、雲浮、羅定、郁南、新興の4県は肇慶市より分割され、雲浮市が新設された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「肇慶市」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Zhaoqing 」があります。 スポンサード リンク
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