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肥後ノ城政和[ひごのじょう まさかず]
肥後ノ城 政和(ひごのじょう まさかず、1984年11月5日 - )は、熊本県下益城郡城南町(現在の熊本市南区)出身で、木瀬部屋(閉鎖処分中は北の湖部屋)所属の現役大相撲力士。本名は緒方 政和(おがた まさかず)。身長180cm、体重146kg、血液型はA型。最高位は西十両9枚目(2014年3月場所)。好物は寿司、パイナップル、とうもろこし。好きな言葉は「無動無心」、趣味はトレーニング・ダーツ。 == 来歴 == 下益城城南中学校、熊本農業高校を経て日本体育大学体育学部武道学科に入学し、相撲部に入部。1年次から団体戦レギュラーとなったが、個人戦では3位が大学時代の最高成績だった。大学卒業後、熊本で教員になることを志していたが当時欠員が無かったため諦めた。一時はプロ入りを断念してアクアドームくまもとにスポーツインストラクターとして正規社員で勤務していた時期もあるが、仕事に追われて相撲の稽古が満足に出来ず、実業団の大会でも不本意な結果に甘んじたことが大相撲入りのきっかけとなった。父親の助言もあり、大相撲へ入門することを決意。この経歴から関取昇進後に「脱サラ力士」の異名が知れ渡る。〔因みにサラリーマン出身の力士としては古くは板井圭介、21世紀に入っては高見藤英希が前例として存在する。幕下付出資格を有していたことと、トラブルを遠因として角界を去ったことが2人に共通する。前者は国体成年Aのタイトルを2年連続で獲得したが当時の春日野(元横綱・栃錦)に実業団の競技レベルを過小評価されて幕下付出を認められなかったとされている。後者は和歌山県庁出身であり、会社員ではない。〕高校の先輩でかつ同郷出身でもある力士の1人がたまたま地元に来ていたため、入門の意を伝えたところ、その力士の所属する木瀬部屋を紹介され、そのまま入門した。2007年11月場所で初土俵を踏んだ。新弟子検査を受けたのは23歳の誕生日の4日前であった。 初めて番付に名前が載った2008年1月場所で序ノ口優勝〔新十両の栃ノ心が優勝 三段目は寺下 スポニチアネックス 2008年1月27日(2012年12月6日閲覧)〕、同年5月場所は三段目優勝と、序二段を含めた3段をそれぞれ1場所で通過し、同年7月場所から幕下に昇進・定着。2009年7月場所で関取昇進の可能性があるといわれる幕下15枚目以内の番付に初めてついた。2011年11月場所では8人によってトーナメント形式で争われる、幕下優勝決定戦に進出している(初戦敗退)。 優勝決定戦を経験した後、2012年1月場所からは幕下1桁台の番付に定着するが、関取目前になると負け越してしまうためなかなか関取に上がることができず、11場所連続で1桁台の番付に在位。しかし、幕下上位を長く経験している間に着実に実力をつけて2013年9月場所では西幕下4枚目で4勝3敗と勝ち越し。十両から落ちる星になった力士の数と比べて、幕下から上がれる星になった力士が少なくなる幸運にも恵まれ、地元九州で開催される11月場所での新十両昇進が決定された。〔肥後ノ城が新十両昇進決定「ホッとした」 日刊スポーツ(電子版) 2013年10月2日(2013年10月2日閲覧)〕11月場所の番付は東十両14枚目。熊本県からの新十両は、2011年7月場所の天鎧鵬以来戦後30人目。11月場所2日目の新十両インタビューでは、「丁度同学年の土佐豊が幕下以下での30連勝を果たした頃に自分の可能性を試したくなった」と入門の背景にあった気持ちを語った。その場所では上手出し投げを新たに取り入れるなどの工夫が実ったが〔『相撲』2013年12月号13頁〕、6日目の取組で左手の甲を骨折したことで翌日から失速し、千秋楽に7勝8敗と負け越しが決定してしまった。しかし、翌2014年1月場所では番付運に恵まれ据え置きとなった。翌2014年1月場所も左手の状態が万全ではなく苦しんだが千秋楽に魁を熱戦の末破って8勝7敗と勝ち越し、自身初となる十両での勝ち越しを果たした。翌3月場所はやや番付運に恵まれ4枚半上昇となる西十両9枚目まで自己最高位を更新したものの、この場所から2場所連続負け越しとなり、結局4場所で関取の座は明け渡した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「肥後ノ城政和」の詳細全文を読む
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