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肥後国人一揆[ひごこくじんいっき]
肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)とは、天正15年(1587年)に勃発した、肥後国人による一揆。肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)とも言う。 == 背景 == 守護菊池氏の衰退の後、戦国時代に突入した肥後国は国人割拠状態が続いた。天正年間の一時期、肥後国は島津氏の支配下に置かれたが、天正15年(1587年)5月、豊臣秀吉の九州征伐が開始されると、島津氏は圧倒的な軍勢の前に屈服、薩摩・大隅に押し戻された。同年6月、52人の肥後国人が秀吉から所領を安堵され、肥後国を拝領した佐々成政の家臣団に組み込まれることになった。しかし、一刻も早い肥後の領国化を望んだ成政が、性急に検地を進めたため国人の不満が一挙に爆発することになる〔甫庵太閤記によると、6月6日に秀吉は成政に、3年間検地や普請役を猶予し、国人が一揆を起こさないよう配慮せよとする定書を与えたとするが、この定書の宛名は「佐々内蔵助」となっており、実在するか疑わしい。5月晦日付の相良長毎・大矢野種基宛の朱印状では秀吉は成政を「羽柴陸奥守」、6月2日付の成政宛書状では「羽柴肥後侍従との」と記しているからである。『熊本県の歴史』(1999)p.151〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「肥後国人一揆」の詳細全文を読む
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