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背奈 福徳(せな の ふくとく、生没年不詳)は 、飛鳥時代の豪族。姓(カバネ)は伝わらない。第19代高句麗王・広開土王の後裔で、その七世の子孫である延興王(延典王)の子孫とする〔『新撰姓氏録』左京諸蕃。ただし高句麗王族の系図に延興王(延典王)に当たる人物は見あたらない。〕。また、第27代高句麗王・栄留王の子とする系図がある〔鈴木真年『百家系図稿』巻9,高麗百済。なお同書は刊行物ではなく、その名のとおり草稿に分類すべきものであり、Wikipediaでは一次史料の扱いとなることに留意すること。〕。 660年(唐の年号では顕慶5年)に唐の将軍・李勣により高句麗の平壌城が陥落すると、福徳は日本(当時は「倭」)に亡命し、のちに武蔵国に居住した〔。 == 系譜 == *父:栄留王〔 *母:不詳〔 *妻:不詳〔 *男子:背奈福光〔 *男子:背奈行文〔『続日本紀』延暦8年(789年)10月17日条に、福徳の孫福信の叔父として登場する。〕。 *男子:背奈和徳〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「背奈福徳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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