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胡政之[こ せいし]
胡 政之(こ せいし)は、中華民国のジャーナリスト・実業家・政治家。新聞の『大公報』、通信社の国聞通訊社において、記者・経営者の両面で活動した人物として知られる。名は霖だが、字の政之の方が一般に使われることが多い。筆名は冷観、静観。 == 事績 ==
=== 安徽派としての活動 === 幼年時代は安徽省で官職に付いた父に付き従い、安慶高等学堂に入学した。父が安徽で病没すると胡政之はいったん帰郷し、1905年(光緒31年)に日本へ留学する。まず東京高等商業学校(現一橋大学)に入学し、続いて東京帝国大学で法律を学んだ。日本滞在期間中に中国同盟会に加入している。 1911年(宣統3年)に帰国すると最初は裁判官に任ぜられ、江蘇高等法院第2庭庭長となっている。民国成立後の1912年(民国元年)、上海で于右任が設立した民立図書公司に勤務し、『民立報』で記事を書いた。翌年、胡政之は張季鸞と共同で『大共和報』を創刊し、胡は総編輯に就任した。また、呉淞中国公学で法律を教授している。1915年(民国4年)、吉林省の法院で推事となり、まもなく吉林巡按使王揖唐の下で秘書長となる。以後、安徽派の一員として活動することになった。 1917年(民国6年)、安徽派の重鎮・徐樹錚の推薦を受け、胡政之は天津『大公報』の経理兼編輯に就任する。1919年(民国8年)からは欧州の報道事情視察に赴き、あわせてパリ講和会議を直接に取材・報道した唯一の中国人記者となった。1921年(民国10年)春に帰国すると『大公報』を離れ、北京の『新社会報』総編輯に転じた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「胡政之」の詳細全文を読む
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