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胡桃館遺跡(くるみだていせき)とは、秋田県北秋田市にある古代遺跡である。 == 概要 == 1961年(昭和36年)、鷹ノ巣駅北西1kmの地点にある鷹巣町立鷹巣中学校(現・北秋田市立鷹巣中学校)〔現在の国道7号と秋田県道196号坊沢鷹巣線に挟まれた中間地点〕の運動場造成の整地作業中、須恵器大かめと土師器鉢が出土した。1963年(昭和38年)4月には、運動場北側の野球場造成工事中、掘立式柱6本、板材、貫穴のある角柱が見つかった。翌1965年(昭和40年)10月、野球場の整地のため土砂採取中、刀子土師杯、箸等が出土するとともに、巨大な土居が現れた。このことによって、秋田県教育委員会は、鷹巣農林高校教諭・冨樫泰時氏に依頼し現場を調査し記録作成を行った。 この調査により、土居の南側に三間の扉が方立柱とともに残り、きわめて重要な遺跡であることが知られたので、1966年(昭和41年)11月には文部省文化財保護委員会が視察、1967年(昭和42年)7月から3年にわたって発掘調査が行われる。建物の上半分は洪水により吹き飛ばされているものの、下半分は建物が立ったまま土砂に埋没している状態で残されている。 建物4棟と柵列、掘立柱列が見つかっている。建物は柵で囲まれ、2棟の建物は住居跡、残りは高床の建物と役所のようなところと考えられている。建物は杉材を使ったもので、30cm四方の角材や、厚さ5cmで幅20cmぐらいの板材が使われている。構造も立派で技術の高さが指摘されている。千年前の建物がそのままの状態で出土した例は、奈良・京都の神社仏閣を除いてほとんどない。桃舘遺跡では4棟の建物が見つかっている。そのうち中心的な建物である2棟が板校倉式と呼ばれる構造をしていた。校倉式建物は、木材を積み上げて壁を作る組積構造で、柱や梁を組み合わせる軸組構造が主流の日本建築においては、珍しい構造といえる。校倉建物は史料から、諸国の官衙には校倉があったが、建物は残っていない。また、東北地方で現存最古の建物は中尊寺金色堂(1124年)なので、それよりも古いことになる。 また、土師器や須恵器、木器、墨書がある土器や木札・木簡などが出土しているが、建物の規模に比べて少ないとする指摘もある。 この遺跡は915年十和田湖の火山の噴火にともなう洪水によって埋没したものである。埋没遺跡は米代川をはさんで対岸の秋田内陸縦貫鉄道 秋田内陸線 小ヶ田駅周辺の地区からも2棟発見されており、江戸時代には菅江真澄、平田篤胤、黒沢道形らが記録を残している。915年の十和田湖火山の噴火は文書記録には一切残っていないが、三湖伝説として人々の間に物語として語り継がれていったと思われる。 北秋田市の教育委員会に申し込むと、胡桃館遺跡の出土品収蔵庫の見学ができる(ただし、学術的な調査のみ)。 北秋田市の胡桃舘遺跡から1967年に発掘されていた木簡に「月料給出物名張」とされるものがあると2005年発表された。これによると、この木簡には「玉作麻呂」などの名前が記されており、それぞれに「米三合」などの数量が書かれていた。玉作は元慶の乱の時に、政府側についた蝦夷の名字である。 2008年7月に北秋田教育委員会と独立行政法人奈良文化財研究所は合同で地中レーダーなどを使用した調査を行い、新たな遺跡の調査を行った。2012年2月7日に、この調査の報告会が北秋田市中央公民館で行われた。地中レーダー調査の結果、新たに5か所で建物が埋まっている可能性が高いという報告があり、2016年度から発掘調査に着手する方針が示された。〔新たに5カ所、埋没建物の可能性 北秋田市・胡桃館遺跡〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「胡桃館遺跡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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