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胡諧之[こ かいし] 胡諧之(こ かいし、442年 - 492年)は、南朝宋から斉にかけての人物。本貫は豫章郡南昌県。 == 経歴 == 胡翼之の子として生まれた。はじめ江州に召されて従事主簿となり、臨賀王国常侍・員外郎・撫軍行参軍・晋熙王安西中兵参軍・南梁郡太守を歴任した。邵陵王南中郎中兵に転じ、汝南郡太守を兼ねるよう命じられたが、受けなかった。射声校尉・江州別駕に任じられた。左軍将軍に任じられたが受けず、邵陵王左軍諮議となった。 476年(元徽4年)、蕭賾が盆城に駐屯すると、諧之は蕭賾の命で尋陽城を守った。478年(昇明2年)、蕭賾が江州刺史となると、諧之はその下で別駕となり、江州の事務を委ねられた。479年(昇明3年)、蕭長懋が襄陽に駐屯すると、諧之は蕭賾の腹心として、北中郎征虜司馬・扶風郡太守となり、関内侯の爵位を受けた。480年(建元2年)、建康に召還されて給事中・驍騎将軍・江州中正となった。黄門郎に転じ、羽林監を兼ねた。483年(永明元年)、衛尉を代行した。484年(永明2年)、給事中の位を加えられた。485年(永明3年)、散騎常侍・太子右率に転じた。487年(永明5年)、左衛将軍の号を受けた。 488年(永明6年)、都官尚書に転じた。太子中庶子となり、左衛率を兼ねた。諧之は辞職を願い出たが、武帝(蕭賾)に許されなかった。太子中庶子のまま衛尉となった。 490年(永明8年)、諧之は武帝の命を受けて禁兵を率いて巴東王蕭子響を江陵に討ち、長史行事を兼ねた。官軍が蕭子響に敗れたため、諧之は敗戦の責任を問われて免官され、軍事の権限のみを代行した。まもなく再び衛尉として再起し、太子中庶子・江州中正を兼ねた。492年(永明10年)、度支尚書に転じ、衛尉を兼ねた。492年(永明11年)、死去した。享年は51。右将軍・豫州刺史の位を追贈された。諡は肅といった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「胡諧之」の詳細全文を読む
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