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胸叩、または胸叩き、胸敲(むねたたき)は、中世・近世(12世紀 - 19世紀)の日本に存在した民俗芸能、大道芸の一種であり、およびそれを行う者である〔''胸叩き''、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年9月11日閲覧。〕〔''胸叩き''、大辞林 第三版、コトバンク、2012年9月11日閲覧。〕〔小山田ほか、p.142.〕。物乞いの一種であるとされ、歳末に上半身裸で胸を叩き「祝い言」を叫ぶという門付をして、金品を得た〔〔。一種の予祝芸能である。冬の季語〔『胸叩 』 - Yahoo!百科事典、2012年9月11日閲覧。〕。 == 略歴・概要 == 「胸叩」は、上半身裸の人物が、自らの手で自らの胸を叩き、騒がしく叫びながら民家等をめぐり歩く、という芸能である〔岩崎、p.32.〕。『絵巻物と民俗』の五来重によれば、そもそも「胸叩」は「山伏の苦行」の姿であるという〔五来、p.251-252.〕。 室町時代、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「鉦叩」とともに「胸たたき」(胸叩)として紹介され、粗末な編笠を被り無精髭を生やし、上半身裸で地面に座り込む姿が描かれている〔。この歌合に載せられた歌は、 * 宿ごとに 春まゐらむと ちきりしは 花のためなる むなたゝきかな というもので、門付で訪れる家々で「春まゐらむ」(「春が来るだろう」の意)と予祝して回る「胸叩」を歌っている〔阿部、p.122-123.〕。五来重によれば、この時期の「胸叩」は、本来の「山伏の苦行」であることが忘れられてしまっている段階である、という〔。同歌合に描かれる腰につけた容器状のものは「餌畚」(えふご、鷹狩の際に鷹の餌や弁当を入れる容器)である〔。 『国史大辞典』(吉川弘文館)では「胸叩」を「節季候」(せきぞろ)とイコールであるとし、『日本国語大辞典』(小学館)では「節季候の類」としている〔。確かに「胸叩」の唱える「祝い言」に「節季候」があるが、「節季候」の芸能者たちはみな覆面をしており、衣裳・装束、人数編成等も大きく異なっている〔、2012年9月11日閲覧。〕〔、2012年9月11日閲覧。〕。『日本国語大辞典』によれば、「胸叩」は、歳末の物乞いの一種で、胸を叩き「節季候」と唱えながら門付をし、金品を乞う者であるとする〔。『郷土史大辞典』も、中世の「胸叩」が戦国時代・江戸時代の「節季候」の前身であろうと記述している〔郷土史、p.985.〕。「節季候」は、近世になって登場したが、歳末に上半身裸で胸を叩く「胸叩」は、近世になっても「節季候」と平行して続いており〔〔、「胸叩=節季候の前身」説は、「胸叩」の大道芸、正月に手を叩く祝言芸との混同ではないかという指摘もある〔京都、p.61.〕。 江戸時代(17世紀 - 19世紀)に入り、「胸叩」の門付は盛んに行われた〔。「胸叩」たちの芸のうちから起きた俗謡に『浮世叩』(うきよたたき)がある〔『浮世叩 』 - Yahoo!百科事典、2012年9月11日閲覧。〕〔第2巻、p.529.〕。江戸時代にあって、「浮世叩」とは、編笠を被り扇で拍子をとり、俗謡『浮世叩』を歌いながら行う門付、およびそれを行う者の呼称にもなった〔〔〔、2012年9月11日閲覧。〕。17世紀に現れた芸能集団「乞胸」の先駆的形態が「胸叩」である、とされる〔、2012年9月11日閲覧。〕。「乞胸」となった者たちは、そもそも武士階級であった浪人であり、慶安年間(1648年 - 1651年)に「町人階級」(職人・商人)に下げられた上で、非人頭車善七の支配下に入った〔〔書評・乞胸 江戸の辻芸人 、野口武彦、アサヒコム、2012年9月11日閲覧。〕。1871年(明治4年)、「乞胸」の名称は廃止となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「胸叩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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