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能代潟錦作 : ウィキペディア日本語版
能代潟錦作[のしろがた きんさく]

能代潟 錦作(のしろがた きんさく、1895年4月5日 - 1973年6月8日)は、秋田県山本郡藤里町出身の元大相撲力士。本名は石田 岩松(いしだ いわまつ)。
== 来歴 ==
1895年4月5日秋田県山本郡藤里町で農家を営む家に二男として生まれる。幼少期から力が強く、家業である農業の合間に太良鉱山鉱石と鉛塊を運ぶ作業に従事し、ある時は馬でさえ運べなかった100貫もの荷を担いだこともあった。相撲も元々好きだったことから周囲から「田舎大関」と呼ばれていた。1914年の春に太良鉱山山神祭が行われた際に、田舎大関の実力を発揮しようと飛び入り三番勝負へ参加したが全く歯が立たず、それが元で力士を志すようになった。そんな中、同年夏に同郷の大蛇潟粂藏一行が巡業でやって来たことで日本相撲協会の目代を介して面会し、大蛇潟の風格に憧れたことで入門を志願すると許可されたので、一行の巡業に帯同し、同年暮に錦島部屋へ正式に入門した。最初の四股名は「突山」で、生家が東方の高山(388.4m)から地鳴りとともに、突き出してできたという突山の上にあったため、そこから名付けた。
1915年1月場所において、土地相撲の実績と部屋の稽古によって幕下付出予定者に勝利した実力を買われて幕下付出から初土俵を踏むが、1勝4敗に止まり当時の規定によって序二段まで降格された。
1921年5月場所で新入幕を果たすが、その場所で虫垂炎を発症させて全休、一場所で十両陥落となってしまった。それでも1922年5月場所で再入幕を果たすと順調に番付を上げていき、1925年1月場所では小結を通り越して一気に関脇へ昇進した。関脇では好成績が続き、1926年5月場所終了後に大関昇進が決定した。ちょうどこの頃に大坂相撲との東西合併が行われることになり、合併による番付の編成がやり直される事態が発生するが、能代潟は予定通り1927年1月場所において新大関となった。短躯だが前述のように怪力で腰が重く下半身も磐石で、腰を落として左四つで組んでから相手の一瞬の隙を突いて少しずつ土俵際へ寄って行く取り口だった。
大関昇進後の1927年10月場所は10勝1敗(優勝同点)、1928年3月場所では10勝1分で初優勝を果たすなど好成績の場所もあったが、前後の場所はいずれも負け越しに終わるなどムラが大きく、大関らしからぬ成績を残すことになった。その後も勝ち越しと負け越しを繰り返していたが、1930年5月場所では4勝7敗とまたも負け越したことでついに大関の座を陥落することとなった。1931年1月場所ですぐに大関復帰を果たすものの、勝ち越しても6勝5敗ばかりで、横綱昇進どころか大関の地位を守るほうが厳しい状況が続く。
同年5月場所10日目(1931年5月21日)では天竜三郎と対戦するが、引き分けを嫌って決着を勝負検査役へ申し出たことで、異例となる2日後(1931年5月23日)の中入り後・後半戦の開始前に再戦することが決まった。再戦では能代潟が吊り出しで敗れるが、天竜も能代潟も、その後に行われた正規の取り組み(能代潟は武藏山武戦、天竜は玉錦三右エ門戦)では既に力を出し切ってしまったことによる疲労から両者とも呆気なく敗れた。しかし、この両者の姿勢が敢闘精神とされて日本相撲協会から両者揃って特別表彰と金一封をもらった。
1932年1月6日春秋園事件が勃発した際は協会脱退組(革新力士団へ参入する力士)から勧誘されるが、「ワシは紙屑拾いになってでも師匠を養う。どんなことがあっても師匠の側に居るのだ」と発言して脱退組力士を追い返し、師匠を喜ばせた。この話は非常に有名で、のちに新国劇がこの一件を「錦島三太夫」として芝居にしたほどである。1933年1月場所では大関から再度陥落し、さらに小結から平幕まで陥落するが、玉錦三右エ門から金星を奪うなど6勝5敗と勝ち越し、同年5月場所でも7勝4敗の好成績で関脇に返り咲いた。しかし、初土俵から21年目を数えるベテラン力士となっていたことで喘息神経痛に悩まされ、1936年5月場所(前頭7枚目)を全休したのを最後に現役を引退した。
引退後は年寄・立田山を襲名したのち、枩浦潟達也を引き連れて独立、立田山部屋を創立したが、1945年3月10日に発生した東京大空襲によって枩浦潟が戦災死したことで部屋を閉鎖、錦島部屋へ戻った。戦前~戦中まで大横綱だった双葉山定次には稽古を付けて指導したことで後々まで親交が深く、双葉山相撲道場が設立されると傘下に入って一門の相談役に就任した。
1961年に日本相撲協会へ停年制が導入されると、その時に停年退職、1973年6月8日に死去、。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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