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脇坂安照[わきさか やすてる]
脇坂 安照(わきさか やすてる)は、江戸時代中期の大名。播磨龍野藩の第2代藩主。龍野藩脇坂家4代。 == 生涯 == 明暦4年(1658年)3月20日、初代藩主脇坂安政の五男として江戸で生まれる。寛文12年(1672年)6月28日、4代将軍徳川家綱に拝謁し、延宝6年(1678年)9月13日に長兄の安村が病弱だったことを理由に廃嫡されると世子となり、同年12月28日に従五位下淡路守に叙任する。貞享元年(1684年)11月25日、父の隠居にともない跡を継いだ。元禄10年(1697年)には伏見宮邦永親王を勅使饗応役として接待している。 元禄14年(1701年)、浅野長矩が吉良義央に斬りつけるという事件が江戸城中で起こる。赤穂事件の始まりであるが、この時に安照は浅野氏の居城である赤穂城受け取りの正使を務めている。そしてその後1年半の間、長矩に代わって永井直敬が赤穂藩主として赴任してくるまで、赤穂城の在番を務めている(ただし、実際には龍野藩の家老など200名によって在番されていたという)。事件の有名な逸話の一つに、殿中刃傷があった直後、安照が隣藩の藩主である長矩の無念を思いやって、抱きかかえられて運ばれる吉良とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すとそれを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつけたというものがあるが、伝承の域を出ない。 宝永6年(1709年)11月13日、幽水と号し、長男の安清に家督を譲って隠居した。この時、四男の安利に2000石を分与したため、龍野藩は5万3000石から5万1000石となった。享保7年(1722年)9月19日、同年2月に死去した安清の後を追うように龍野で死去した。享年65。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「脇坂安照」の詳細全文を読む
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