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脇坂 安董(わきさか やすただ) は、江戸時代後期の大名、寺社奉行、老中。播磨龍野藩第8代藩主。龍野藩脇坂家10代。 == 生涯 == 7代藩主脇坂安親の次男として生まれ、兄・安教が早世したため嫡子となる。天明4年(1784年)、父の隠居により家督を相続した。その後、寺社奉行を都合2度、さらには老中を務めた。脇坂家は元外様大名であり、願い譜代に直してもらった家柄ではあったが、外様の家系は幕府の重要な役職には就けないのが慣例であった。しかし安董は弁舌が爽やかで、押し出しも良く男ぶりも良かったといわれ、これが将軍家斉の目にとまり、異例のことながら寛政3年(1791年)に寺社奉行に登用された。 この間、安董は谷中延命院一件、三業惑乱の両事件を裁いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「脇坂安董」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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