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脱亜入欧[だつあにゅうおう] 脱亜入欧(だつあにゅうおう)とは、明治維新以降の日本において、「後進世界であるアジアを脱し、ヨーロッパ列強の一員となる」ことを目的としたスローガンや思想である。 == 概略 == 欧米列強が植民地戦争を繰り広げていた明治時代初期に、「富国強兵」と共に政府が実行した政策の根幹となった思想である。後の韓国併合、満州国建国、日中戦争などアジアへの侵略に至る流れの始まりと見ることがある。 具体化された例として、断髪令や廃刀令、1880年代の鹿鳴館が知られている。 1885年(明治18年)に福澤諭吉が書いたとされる論説「脱亜論」〔なお、同論説はあくまでも無署名文であり、近年は福澤執筆説に対して疑問が提出されている。詳細は脱亜論の項目参照。〕は、基本的にこの考え方に沿っていると指摘されることがあるが、これは誤りである。福澤は署名著作・『時事新報』論説のすべてにおいて「入欧」という言葉を一度も使用していない〔「「入欧」という言葉にいたっては(したがって「脱亜入欧」という成句もまた)、福沢はかつて一度も用いたことがなかった。」丸山 2001、p.282〕。さらに福澤が「脱亜入欧」という語句と関連付けられるのは第二次世界大戦終結後の1950年代以降である〔「日本で、「脱亜入欧」という成句が、あたかも福沢自身の造句であるかのように喧伝(けんでん)され、いなそれ以上に、福沢の全思想のキー・ワードとして、学界だけでなく、一般ジャーナリズムの世界にまで流通するようになったのは、きわめて最近の現象であり、たかだか一九五〇年代以後の傾向である。」丸山 2001、p.285〕。 なお1885年(明治18年)の「脱亜論」に正対する「興亜論」は興亜会を中心に展開された汎アジア主義であり、その興亜会には勝海舟や福澤諭吉が顧問として参加していた。もっとも興亜論は後に日清戦争と日露戦争に勝利したのを機に、興亜会を吸収した東亜同文会などを中心として、八紘一宇といった日本を盟主とすべきとする優位性に拠ることになる。その帝国主義・覇権主義への信奉と強行的な侵略の正当化とを背景とするに至った点で、むしろ「脱亜論」とは性格を異にする。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「脱亜入欧」の詳細全文を読む
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