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臨済院(りんざいいん)は、1701年から明治時代まで、陸奥国宮城郡芋沢村吉成(現在の宮城県仙台市青葉区臨済院)にあった黄檗宗の寺院である。山号は河北山。江戸時代には仙台の黄檗宗の有力寺院であったが、明治時代に廃寺になった。境内の建物としては弁財天堂だけが残り、「臨済院地内弁財天堂並びに堂地」の名称で仙台市の有形文化財に指定されている。 == 歴史 == 黄檗宗に傾倒した仙台藩主伊達綱村が、元禄14年(1701年)に仙台の北西の外れにある角五郎丁に作らせたのが始まりである。綱村が筆をとって額の字を書き、仙台城内の万善堂にあった如意輪観音像を本尊とした〔佐々久「仏教史」、『宮城県史』第12巻469-470頁。〕。開山は、仙台近郊にある大年寺の第4世鳳山であった。鳳山は、大年寺の役僧を1か月交代で臨済院に派遣して管理した。寺には料具金13両と、人足扶持8人分が与えられた〔「安永風土記書出」黄檗宗河北山臨済院。『宮城町誌』史料編(改定版)217頁-219頁に収録。〕。 綱村の後を譲られた伊達吉村は、正徳4年(1714年)2月9日に、栗原郡一迫畑岡村で4貫700文、志田郡下中野目村で5貫300文、合計10貫文(100石)の寺地を与え、かわりに料具金・人足扶持を停止した〔「安永風土記書出」黄檗宗河北山臨済院。〕。正徳5年(1715年)9月に、吉村は臨済院を芋沢村の吉成に移した〔佐々久「仏教史」、『宮城県史』第12巻470頁。〕。その頃は綱村も隠居として存命で、家臣をやって祝儀の品を届けさせた。享保元年(1716年)10月には吉村が参詣して、鳳山が70歳になったことを賀す歌を詠んだ〔「安永風土記書出」黄檗宗河北山臨済院。〕。鳳山は、その年の8月に五社明神社を、翌年3月には疱瘡神社を境内に建てた。他に、いつ作られたか不明な弁財天堂があった〔「安永風土記書出」黄檗宗河北山臨済院。〕。 臨済院は、安永3年(1774年)頃には塔頭を10、末寺を23持つ大寺院で、仙台藩の寺の序列で着座格とされていた〔「安永風土記書出」黄檗宗河北山臨済院。〕。 安永2年(1773年)1月21日に、寺内の木を盗伐しようとした樵夫(きこり)の頭と背を副寺の龍田が杵で打って殺した。行方不明になった樵夫を捜しに来た親戚に、龍田は樵夫を追い出したと答えたが、後に死体が見つかったため殺人事件になった。龍田には斬罪、住職には捜索に非協力的だったことにより蟄居の判決が下った〔『源貞氏耳袋』1「安永2年吉成臨済院龍田等之儀ニ付被仰渡書」90-91頁。〕。 明治になって、寺領と藩の保護を失うと衰退し、明治20年(1887年)頃までにすべての堂宇を失い、廃寺になった。境内にあった弁財天堂だけが地元の人々に守られて残った。 昭和60年(1985年)に発掘調査が実施された。寺の東にあった山門跡、本堂跡と思われる石垣遺構、鐘楼の基壇、性格がはっきり確定できないが寺の石垣遺構、井戸跡が確認された。また、遺物としては江戸時代の陶磁器が多数出土した。〔佐々木和博「臨済院跡」541頁。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「臨済院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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