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臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日 - 1917年(大正6年)12月13日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の医学者・小児科医である。東京帝国大学卒、医学博士。 ==略歴== *1876年(明治9年)、三重県安濃郡草生村(現・津市)川本家に生まれる。 *1892年(明治25年)、17歳で三重県一志郡榊原村谷杣(現・津市榊原第5区)臼杵家28代、漢方医臼杵玄貞の養子になり、29代となる。 *(臼杵玄貞は桓武平氏の流れをくむ千葉平氏(旗紋は月に星、家紋は七曜紋)の家系である。又、先祖の一人である17代臼杵与四郎は、鎌倉時代から安土桃山時代、伊勢国司として栄えた北畠家の家臣旗本であり、小倭(おやまと)七人衆の一人でもある。) *1895年(明治28年)、津市尋常中学校卒業。 *1898年(明治31年)、第四高等学校(現・金沢大学法文学部)卒業。 *1902年(明治35年)、東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)卒業、医学士。東京帝国大学付属医院小児科、弘田長教授の許で研究に従事。 *1905年(明治38年)、東京女子医科大学で小児科講義始める。 日本が統治していた台湾の台湾総督府医院小児科医長、台湾総督府医学校教授に任ぜられる。 *1906年(明治39年)、台湾総督府医院小児科診療を開始。正七位叙位。 *1907年(明治40年)、ドイツ、ブレスラウ大学(現・ポーランド、ヴロツワフ大学)に官費留学を命ぜられる。現代小児科の創設者の一人、アダルベルト・チェルニー(:w:Adalbert Czerny)教授の許で研究に従事。 *1910年(明治43年)、ドイツから再び台湾総督府医院小児科に戻り、一時期院長を務め診療研究に従事。台湾小児科医療の基礎を築く。従六位勲八等叙位。 *1913年(大正2年)、官を辞して日本へ帰還する。 東京帝国大学より医学博士の学位を授与される。正論文『生理的並びに病的関係に基ける哺乳児腸内に於ける脂肪の運命』。 *1914年(大正3年)、「東京神田区淡路町1-1(現・千代田区)」に小児科医院を開業し小児診療に尽力。 *1917年(大正6年)12月13日、病没。墓地は東京都杉並区、天台真盛宗・真盛寺。30代臼杵仁(長男)(昭和20年12月10日没)も同墓地。31代臼杵薫(次男)(昭和37年3月10日没)は三重県尾鷲市、金剛寺。(28代臼杵玄貞までの先祖の墓地は、三重県津市榊原、海泉寺にあり永代供養されている) 臼杵才化の血縁直系子孫は現在、孫、曾孫、玄孫まで存在するが、孫の代が女系であった為、直系臼杵の姓は31代をもって消滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「臼杵才化」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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