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與謝野馨 : ウィキペディア日本語版
与謝野馨[よさの かおる]

與謝野 馨(よさの かおる、1938年昭和13年)8月22日 - )は、日本政治家勲等旭日大綬章学校法人文化学院院長・理事報道政治活動においては新字体与謝野 馨(よさの かおる)と表記されることが多い。
衆議院議員(10期)、衆議院議院運営委員長(第50代)、文部大臣第117代)、通商産業大臣第63代)、自由民主党政務調査会長(第46代)、内閣府特命担当大臣金融経済財政政策、規制改革担当)、内閣官房長官第74代)、拉致問題担当大臣財務大臣第11代)などを歴任した。
== 来歴・人物 ==

=== 生い立ち ===
東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に与謝野秀与謝野道子の長男として生まれる。父・秀(しげる)は歌人与謝野鉄幹晶子夫妻の二男で外交官(戦前は外務省情報部長、調査局長などを経て在外公館勤務)。
生後すぐに父が中国・北京に赴任したため、馨も0歳にして北京に移る。日本に帰国した4歳の頃、祖母・晶子が死去している(祖父・鉄幹は馨が生まれる3年前に死去しており、会ったことはない、また祖母・晶子との思い出も殆どなく、祖父母は身内ではなく、教科書に載っている歴史上の人物であるような気がすると自身の著書で著している)。戦時中、父はベルリンの日本大使館に勤務していたが、日本に残された家族の生活は困窮し、無賃乗車で母とともに交番に連れて行かれたこともあったという。戦争末期には東京大空襲にも遭遇している。港区立麻布小学校卒業後、麻布中学校に進学。
父がエジプト勤務になったときは、カイロ郊外・ヘリオポリスのイングリッシュスクールに編入学している。このころ、自分が敗戦国の国民であることを強烈に感じ、日本の文化・経済を一流にしたいという想いが生まれたという。その後、イギリスのオックスフォード大学への進学を目指し、一次試験までパスするが、考えを変えて日本に帰国。麻布高校に編入学し、平沼赳夫の同級生となる。東大受験に失敗するが、平沼によれば卒業式で表彰されるような優等生だった。駿台高等予備校(現駿台予備学校)で1年間の浪人を経て東京大学文科I類に入学。いわゆる全学連世代だが、学生運動には一切関わらなかった。駒場時代は授業に失望して文学書を濫読。学生時代の記憶に残る本として有島武郎の「カインの末裔」、後々まで自分の思考に影響を与えた本として、碧海純一「法哲学概論」、団藤重光「刑法綱要」などを挙げている。硬式野球部に所属し、マネージャーを務める。このときの2年後輩に新治伸治がいる。
1963年東京大学法学部卒業(三井住友銀行特別顧問の岡田明重は法学部の同期)。母の知人・中曽根康弘の紹介で日本原子力発電に入社する〔『堂々たる政治』p.84〕。日本原子力発電では、当初技術部に配属され、後に外交官となる今井隆吉係長の薫陶を受け、英語専門文献の翻訳なども手がけた。後に事務系に転じ、米国での資金調達や原子力保険といった金融業務に従事していた。
会社の命により、民社党核拡散防止条約に関する訪欧調査団に原子力の専門家・通訳として同行、スイス、ユーゴスラビア、イギリス、イタリア、ドイツなどを訪問した。調査団メンバーは後の委員長佐々木良作を始め曽祢益岡沢完治渡辺朗。与謝野にとっては政治家と深く関わった第一歩であり、こうした民社党の面々とは政界入り後も親しい関係が続くことになる。佐々木と共にドイツ滞在中には中曽根康弘と邂逅、2人の政治家の食事のお供などをしたが、このことが政界入りの直接の契機となった。中曽根とは就職の斡旋以来、勉強会などを通じて親交があったが、帰国後にやはり同じ勉強会のメンバーであった渡邉恒雄を通じて秘書にならないかと誘いを受けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kaoru Yosano 」があります。



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