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東洋学館[とうようがっかん] 東洋学館(とうようがっかん)は、1884年から1885年にかけて、上海で、興亜学館(こうあがっかん)、亜細亜学館(あじあがっかん)と名称を変えながら日本人によって経営された学校。 中国における日本人の経営による教育機関としては、後の日清貿易研究所や東亜同文書院に先んじた存在であり〔、また、それらにも人脈の上で間接的な影響を及ぼした。 発足時における構想では、修業年限を3年ないし4年とする商法学、政治経済学、法律学の専攻を置くものとされ、加えて、語学を中心に2年学ぶ予科を併設することになっていた。しかし、開校当初から、上海の領事館当局からは有名無実の学校と目されて、日本政府からの公的認可や支援を受けることはできなかった。結果的には専門教育はほとんど行なわれず、実態は中国語と英語を教える語学学校にとどまった〔。 体制の建て直しを企図した東洋学館は、10月に『朝野新聞』主筆であった末広重恭(鉄腸)を館長に立て、現地上海に大内義映、鈴木万次郎を学校設立委員として派遣し、さらに館長代理・山本忠礼などを現地に送り、いったん学館を閉館の上、11月からの再開に取り組んだ。その後、再開後の校名を興亜学館とするが、「興亜」の文字を不穏とする意見を受け、さらに亜細亜学館と改称して、アメリカ合衆国の租界となっていた崑山路第8号館に移転し、学校再開の開館式を行った。亜細亜学館は、イギリス人、中国人の教員も加えて体制を整え、中国人学生の受け入れも行ない、日本政府に対して認可申請を行なったが、認可は遂に下りなかった〔。 最終的には、1885年9月に学生募集停止の諭達が政府から下され、財政難という背景もあって学館は解散することとなったが、負債整理と関係者の帰国のために、大隈重信が資金援助を行なった。
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