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李最応(り さいおう、イ・チェウン、1815年 - 1882年)は、李氏朝鮮の王族で興宣大院君の兄。称号は興寅君。字は良伯、号は山響。 大院君政権では要職に就くことはなかったが、1873年大院君の失脚で閔氏政権に登用され、1874年 左議政、翌年には領議政になった。 1880年 統理機務衙門が設置されると、その総理大臣となった〔『高宗実録』高宗18年2月7日条。〕。1882年の 壬午事変の際に自宅を襲撃され殺害された。謚号は文忠。 ==参考文献== *朝鮮総督府中枢院編『朝鮮人名辞書』1996頁。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李最応」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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