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興津 立雄(おきつ たつお、1936年5月19日 - )は、静岡県焼津市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、124ページ〕出身の元プロ野球選手(三塁手)。旧名は「達雄」。 == 経歴 == 静岡商業高校では四番打者、一塁手として、の夏の甲子園に出場。2年生エース松浦三千男(阪神)を擁し、高松商、泉陽、高知商を連破して決勝に進出。しかし決勝では中京商の中山俊丈投手に0-3で完封され敗退、準優勝にとどまる〔。甲子園通算で4試合に出場し3安打、打率.200を記録〔『背番号の消えた人生』24頁〕。高校同期に滝英男捕手(阪神)がいる。 高校卒業時に慶応大学から勧誘を受けるも受験に失敗し、一旦富士製鉄に入社を決めるが、その後勧誘を受けて専修大学へ進学する〔。専大ではのち広島で同僚となる古葉毅と同期であった。大学1年生時からホームランバッターとして活躍し〔、その強打者ぶりから「東都の長嶋」と呼ばれた〔。東都大学リーグでは3度優勝。の全日本大学野球選手権大会では、決勝で杉浦忠、長嶋茂雄らの立大に0-5で敗れ、準優勝に終わる。リーグ通算96試合出場、272打数68安打、打率.250、5本塁打、35打点。ベストナイン(二塁手)1度受賞〔。 に広島カープに入団〔。一年目より三塁手のレギュラーとなり、翌には一塁手のレギュラーとしてチーム最多となる21本塁打(藤本勝巳と1本差でセ・リーグ2位)を放ち、オールスターゲームにも選出されるなど更なる飛躍が期待されたが、翌年の春季キャンプで第五腰椎分離症となり、以降はやや伸び悩んだ〔。 それでも、腰痛と闘いながらからまでレギュラー三塁手を務め、この間のには全試合出場を果たして、打率.303(リーグ5位)、93打点(リーグ3位。当時のチーム記録)をマークするなど、チームの中軸打者として活躍した〔。以降は三塁手・一塁手の控えや代打を務め、に引退〔。 引退時には打撃コーチ就任の要請もあったというが退団。水道工事会社勤務を経て、東京都杉並区高円寺で水道工事業『興津設備』を経営した〔『背番号の消えた人生』33頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「興津立雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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