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興福寺の仏像 : ウィキペディア日本語版
興福寺の仏像[こうふくじのぶつぞう]

本項目興福寺の仏像(こうふくじのぶつぞう)では、奈良県奈良市にある、藤原氏の氏寺・興福寺に伝来した仏像について説明する。
興福寺の概要、歴史等については「興福寺」の項を参照のこと。
== 概要 ==

平城京の東端、現在の奈良県奈良市にある法相宗大本山興福寺は、天智天皇8年(669年)、藤原氏の祖である中臣鎌足の病気平癒のため、山背国の山階(やましな、現・京都市山科区)に山階寺として創建された。その後、大和国高市郡厩坂(うまやさか、現・奈良県橿原市付近)に移って厩坂寺となり、和銅3年(710年)、平城遷都の際に藤原不比等によって今の奈良市に移された。以後、藤原氏の氏寺として栄え、延暦寺とともに「南都北嶺」と称される有力寺院となり、中世には仏教界のみならず大和国一国を事実上支配する一大勢力であった〔(小西、1987)pp.13 - 14, 103 - 104, 200 - 201, 〕。
興福寺は治承4年(1180年)の平重衡による兵火で全山が焼失する大被害を受け、多くの建物や仏像が失われたが、朝廷や藤原氏の支援を得て、ただちに復興計画が立てられた。その後、中金堂(ちゅうこんどう)、講堂、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)、五重塔、三重塔、北円堂(ほくえんどう)、南円堂(なんえんどう)、食堂(じきどう)などの主要堂宇と、そこに安置する仏像は数十年をかけて順次復興された。興福寺には、この鎌倉復興期に康慶運慶ら当時の有力仏師によって造られた仏像群が現存している〔(小西、1987)pp.86 - 90〕。
興福寺は治承の兵火後にもたびたび火災に遭っている。江戸時代の享保2年(1717年)の火災では、東金堂、五重塔、三重塔、北円堂、食堂は焼け残ったが、中金堂などが焼失。この火災後の復興は遅々として進まず、中金堂と南円堂はかろうじて再建されたが、南大門、講堂、西金堂はついに再建されなかった〔(小西、1987)pp.108 - 109〕。
興福寺は明治初年の神仏分離廃仏毀釈でも大打撃を受けた。明治時代初期の混乱期には、食堂が取り壊されたほか、仏像を含む多くの寺宝が流出したが、こうした度重なる災厄を経て、多くの文化財が現代に伝わる。昭和34年(1959年)には境内に国宝館が完成し、本来の安置堂宇を失った仏像などは同館で保管・公開されることとなった〔(小西、1987)pp.111, 115〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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