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興良親王[おきよししんのう] 興良親王(おきよししんのう / おきなが - 、嘉暦元年(1326年)〔『南方紀伝』は建武元年3月14日(1334年4月18日)とするが、延元・興国期の活動から見て疑問。安井久善は嘉暦2年(1327年)以前かと推定する。〕? - 没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族。後醍醐天皇の孫にして、大塔宮護良親王の王子。母は権大納言北畠師重の女(親房の妹)である〔吹上本『帝王系図』・『古本帝王系図』などに「大納言(東宮大夫)師兼女」とあるのは誤写であろう。〕。南朝から征夷大将軍に任じられ、大塔若宮・兵部卿若宮・宮将軍・赤松宮と号した。名は陸良〔天野信景の『南朝紹運図』は「常良」にも作るが、中山信名はその誤りについて、「常良・陸良ニ作ルハ、常陸親王ト称シタマヒシ、常陸ノ二字ヲ分チテ、諸皇子ノ名字ニ良字ヲ用ヒシニ准シテ、構ヘナセシナリ、」(『関城書考』)と論じている。「常良」の名は、あるいは恒良親王と音が通じるために用いられなかったのであろうか。〕とも。 名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子名の読みを参照。 == 経歴 == 延元元年/建武3年(1336年)建武政権が崩壊すると、後醍醐天皇に供奉して山門の指揮官を務めたが、8月八幡山(京都府八幡市)に移り、11月には和泉巻尾山(大阪府和泉市)に拠って紀伊粉河寺へ兵力を求めた。やがて後醍醐天皇の猶子となって親王宣下を受け、次の後村上天皇が践祚すると間もなく征夷大将軍に任じられる〔『太平記』巻34「銀嵩軍事」。補任の年月日については確証がないが、『大日本史』『南狩遺文』は天皇の践祚した延元4年(1339年)と解している。『南朝系図』『系図纂要』が正平15年(1360年)4月とするのは太平記の文意にそぐわず、神戸能房の『伊勢記』は興国3年11月8日(1342年12月6日)と具体的な日付を掲げるも根拠不明。〕。時に東国では常陸合戦の最中であり、その在地武士の結集を図る必要性から、興国2年/暦応4年(1341年)夏に常陸国に下向して小田城の北畠親房に迎え入れられた。同年11月城主小田治久が武家方へ降ったため、春日顕時に奉じられて大宝城に移るも、戦況が好転しない下での籠城を余儀なくされ続け、興国4年/康永2年(1343年)春には小山城に移り、11月に本拠の関城・大宝城が陥落すると西走した。翌年(1344年)頃には駿河安倍城の狩野貞長の許に逗留していたとみられる〔『李花集』の詞書によると、この間に宗良親王が興良親王の許を訪問していたことが分かるが、これは両親王を父子とする俗説を生む原因ともなった。〕。 吉野へ戻った後は再び和泉に現れ、正平3年/貞和4年(1348年)1月四條畷の敗戦の際には、諸将を招集してその善後策を講じるも奏功せず、正平6年/観応2年(1351年)7月南朝に帰順した赤松則祐に奉じられ、播磨周辺諸国における宮方の中核勢力になった。翌年(1352年)則祐が変心した後は京都に送られて冷遇されたが、やがて但馬の南朝勢により救出されて高山寺城(兵庫県丹波市)に入り、但馬・丹波両国を制した。さらに山陽道を進み、摂津甲山(兵庫県西宮市)で則祐と交戦するも、宮方軍はたちまち敗れて河内に落ち延びたという。その後しばらく天皇の許に留め置かれ、どこへも派遣されることがなかったが、正平15年/延文5年(1360年)4月、南朝に帰順した赤松氏範を配下に吉野十八郷の兵が与えられると、将軍足利義詮に通じて銀嵩(銀峯山)で反旗を翻し、南朝の賀名生行宮を攻撃して御所宿舎を軒並み焼き払った。南朝では二条前関白(教基か)を大将軍としてこれに抗戦させたので、吉野の兵は離散し、親王も南都へ落ち延びたというが〔『太平記』巻34「銀嵩軍事」。近世の俗書には、敗績して自害した(『七巻冊子』)とも、幽閉された後に殺害された(『南朝編年記略』)とも伝えている。〕、以後の消息は明らかでない。 親王の墓と伝えるものには、兵庫県姫路市香寺町須加院にある親王塚や奈良県吉野郡野迫川村北股にある田村塚(将軍塚)などが知られている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「興良親王」の詳細全文を読む
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