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興雲院 : ウィキペディア日本語版
興雲院[きょううんいん]

興雲院(きょううんいん、? - 慶長17年6月25日1612年7月23日))は、織田信長側室の一人。近江野洲郡北里村の土豪・高畑源十郎の四女〔松田亮「信長の側室、おなべの方」(『歴史研究』1969年12月号)〕。通称はお鍋の方(おなべのかた)。しかしながら、お鍋宛の書状の宛先は「小倉」「小椋」などとなっており、系譜類では「小倉三河守女」との記録も残り、当時の女性は実家の姓を名乗る事から、高畑氏であると言う説には疑問が残る。また、本能寺の変後、お鍋が実家の小倉氏の元に戻っていたとする文献もある。
俗説では、はじめ近江国の八尾山城主である小倉実澄に嫁いで〔松田亮「信長の側室、おなべの方」(『歴史研究』1969年12月号)〕、この間に二人の男児(小倉甚五郎小倉松寿)をもうけた。実房が蒲生定秀に攻められ戦死した後は信長の側室となり、織田信高織田信吉於振水野忠胤佐治一成室)を儲けている。
天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死去した後は、信長の側室の代表的存在として行動し、織田家の位牌所を守ったとされている。ただし、崇福寺に残る位牌所設置の書状の署名が「なへ」であるため、興雲院の書状であろうとされているが、「なへ」は当時の一般的な女性名であるため、興雲院ではない可能性もある。なお、次男・松千代は本能寺で信長に殉じた。こうした経緯を経て羽柴秀吉の庇護下に置かれ、化粧領化粧料とも)として近江国神埼郡高野村で500石を与えられた〔松田亮「信長の側室、おなべの方」(『歴史研究』1969年12月号)〕。秀吉の正室・ねねに仕えて孝蔵主東殿大谷吉継の母)と共に側近の筆頭であったという。長男・甚五郎が天正11年(1583年)に加賀松任城主に任じられたという記録もあり、豊臣政権の奥向きにあって重きをなしたことは確かなようである。お鍋が、秀吉の側室松の丸殿の侍女であった可能性も指摘されている〔桑田忠親『太閤秀吉の手紙』(角川文庫、1965年)〕〔桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)140-141頁〕。、
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで子の信吉が西軍について改易されたため連座して化粧領を取り上げられる。その後、淀殿から50石の知行を与えられ〔松田亮「信長の側室、おなべの方」(『歴史研究』1969年12月号)〕、京都で晩年を過ごしている。慶長17年(1612年)6月25日、死去した〔松田亮「信長の側室、おなべの方」(『歴史研究』1969年12月号)〕。墓所は京都の大徳寺塔頭総見院〔松田亮「信長の側室、おなべの方」(『歴史研究』1969年12月号)〕。文学に造詣が深く公家との交流があったという。
== 登場作品 ==

* 信長 KING OF ZIPANGU 1992年 NHK大河ドラマ、演:若村麻由美
* 織田信長 1994年 テレビ東京、演:森崎めぐみ
* 秀吉 1996年 NHK大河ドラマ、演:櫻井公美
* 信長の棺 2006年 テレビ朝日、演:浅野ゆう子




== 脚注 ==

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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