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舛田山 靖仁(ますだやま やすひと、1951年4月10日 - )は、石川県七尾市出身で春日野部屋所属の元大相撲力士。本名は舛田 茂(ますだ しげる)。身長187cm、体重152kg。最高位は東関脇(1983年9月場所)。現在は年寄・千賀ノ浦、血液型はO型。得意技は突っ張り、押し、叩き。 == 来歴 == 小学校時代は野球もやっていたが、中学時代から本格的に相撲を始め、高校時代には全国高等学校相撲選手権大会で優勝して、高校横綱となる。拓殖大学に進学すると、全国学生相撲選手権大会で決勝に残るなど活躍した。大学卒業と同時に一番初めに誘いのあった春日野部屋に入門。出羽海部屋に同音の増田という力士がいたため、舛田山の四股名で1974年3月場所に幕下付出で初土俵を踏んだ。 以降、順調に番付を上げて行き、1975年1月場所に十両に昇進した。右かかとの骨折もあり十両で苦労したが、1976年11月場所に新入幕を果たした。直前の9月場所は十両西6枚目で9勝6敗、本来なら入幕できるような成績ではないが、この場所は引退する幕内力士が多かったため、幸運にも入幕することができた。 立合いに当たっておっつけからの突き押しが得意。長らく平幕に甘んじていたが、1980年5月場所で11勝4敗の成績をあげ敢闘賞を獲得、11月場所では横綱・若乃花から金星を獲得して殊勲賞を受賞し、1981年1月場所には小結に昇進した。しかし同年9月場所で左足の腿腱筋を断裂して十両に陥落した。このころから攻めが弱くなり苦労したが、徹底的に叩く相撲を取るようになり復調し、1982年7月場所に再入幕を果たすと、相手を突きや右のど輪押しで起こし、相手が攻め返そうとする端を叩く取り口で再び上位に進出、1983年7月場所には再度小結に昇進し、9日目に横綱・千代の富士を得意の叩きからの引き落としで破った。この場所は8勝7敗と勝ち越して2回目の殊勲賞を受賞、翌場所は最高位の関脇まで番付を上げた。当時対戦相手から「分かっていても喰ってしまう」と嘆かせる名人芸であった。その後も幕内上位で相撲を取り続け、1985年5月場所を最後に十両に陥落。再入幕を目指していたが、1989年7月場所限りで現役を引退した。若い頃によく稽古をしていたことが体の硬い欠点を補い、長持ちさせたといえよう。 引退後は年寄・千賀ノ浦を襲名し、春日野部屋の部屋付きの親方として後進の指導に当たったが、2004年9月場所後に分家独立して千賀ノ浦部屋を開設した。当初は同郷で拓殖大学の後輩でもある栃乃洋を連れて独立するはずだったが、年寄名跡を手当てすることができず移籍を断念した。その代わりに同じく拓殖大学の後輩の栃の山ら4名の内弟子を引き連れ、その後も舛光理(中央大学出身)、拓錦(拓殖大学出身)、舛名大(名古屋大学出身)など将来性豊かな学生力士を次々と入門させるなど部屋経営に尽力している。2007年の能登半島地震にあたって、弟子らとともに故郷を慰労のため訪問、被災者にちゃんこ鍋を振る舞う姿がテレビで報道された。前述のように現役末期は叩きを持ち味としていたが、テレビ解説では「若ノ鵬は叩く相撲が多いから人気が出ない」などと発言していた。2010年9月場所に舛ノ山が関取昇進を果たし、これが千賀ノ浦部屋初の子飼い関取となった。 2012年の改選で理事に当選し、名古屋場所担当部長に就任。2014年の改選でも引き続き同様の地位と職務を与えられた。 趣味は伝書鳩の飼育。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「舛田山靖仁」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Masudayama Yasuhito 」があります。 スポンサード リンク
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