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舟木 錬太郎(ふなき れんたろう、1856年2月11日(安政3年1月6日) - 1923年(大正12年)10月20日)は、日本の軍人。海軍少将。現在の石川県出身。 == 官歴 == * 1871年(明治4年)8月2日 - 海軍兵学寮に入寮 * 1875年(明治8年)6月9日 - イギリス留学 * 1876年(明治9年)5月26日 - 海軍少尉補、地中海にて英国軍艦「サルタン」乗組み * 1880年(明治13年)6月 - イギリス海軍大学校卒業 * 1881年(明治14年) * 7月9日 - 帰国 * 8月10日 - 任 海軍中尉〔 * 1882年(明治15年)9月8日 - 任 海軍大尉〔 * 1886年(明治19年)7月14日 - 海軍大臣秘書官心得〔『官報』第913号「官庁事項」1886年7月17日。〕 * 1887年(明治20年) * 10月25日 - 任 海軍少佐〔『官報』第1302号「叙任及辞令」1887年10月29日。〕 * 10月27日 - 海軍大臣秘書官〔『官報』第1301号「叙任及辞令」1887年10月28日。〕 * 11月2日 - 顧問イングルス氏に係る事務取扱兼務〔『官報』第1307号「叙任及辞令」1887年11月5日。〕 * 11月4日 - 兼任 造船会議議員 〔 * 1890年(明治23年)1月13日 - 免 海軍大臣秘書官、補 扶桑副長、免 イングルス氏雇入中海軍大学校御用掛兼務〔『官報』第1960号「叙任及辞令」1890年1月14日。〕 * 1891年(明治24年) * 6月11日 - 免 扶桑副長、補 干珠艦長〔『官報』第2384号「叙任及辞令」1891年6月12日。〕 * 7月23日 - 免 干珠艦長、補 日進艦長〔『官報』第2422号「叙任及辞令」1891年7月27日。〕 * 12月14日 - 免 日進艦長、補 赤城艦長〔『官報』第2544号「叙任及辞令」1891年12月21日。〕 * 1892年(明治25年)12月21日 - 任 海軍大佐、叙高等官四等〔『官報』第2848号「叙任及辞令」1892年12月23日。〕、免 赤城艦長、補 海軍兵学校教頭〔『官報』第2849号「叙任及辞令」1892年12月24日。〕 * 1893年(明治26年)12月20日 - 補 大和艦長〔『官報』第3145号「叙任及辞令」1893年12月21日。〕 * 1894年(明治27年) * 12月5日 - 補 旅順口海軍根拠地海兵団長〔 * 12月27日 - 昇叙高等官三等〔 * 1895年(明治28年) * 2月16日 - 補 金剛艦長 * 2月18日 - 免 金剛艦長、補 佐世保海兵団附 * 1896年(明治29年) * 4月1日 - 補 呉海兵団長〔『官報』第3826号「叙任及辞令」1896年4月4日。〕 * 11月17日 - 免 呉海兵団長、補 高千穂艦長〔『官報』第4018号「叙任及辞令」1896年11月18日。〕 * 1897年(明治30年)4月22日 - 威仁親王イギリス皇帝即位六十年祝典参列に随行〔『官報』第4140号「叙任及辞令」1897年4月24日。〕 * 1898年(明治31年) * 3月11日 - 免 高千穂艦長、待命〔『官報』第4406号「叙任及辞令」1898年3月14日。〕 * 11月10日 - 補 厳島艦長〔『官報』第4611号「叙任及辞令」1898年11月11日。〕 * 1899年(明治32年) * 3月22日 - 免 厳島艦長、補 富士艦長〔『官報』第4714号「叙任及辞令」1899年3月23日。〕 * 6月17日 - 免 富士艦長、補 横須賀海兵団長〔『官報』第4788号「叙任及辞令」1899年6月19日。〕 * 1900年(明治33年) * 4月27日 - 横須賀鎮守府司令長官事務代理兼務 * 12月6日 - 免 横須賀海兵団長、補 富士艦長〔『官報』第5231号「叙任及辞令」1900年12月7日。〕 * 1901年(明治34年)10月1日 - 免 富士艦長、待命〔『官報』第5476号「叙任及辞令」1901年10月2日。〕 * 1902年(明治35年)5月28日 - 任 海軍少将、予備役〔『官報』第5668号「叙任及辞令」1902年5月29日。〕 * 1914年(大正3年) * 1月6日 - 後備役 * 3月1日 - 退役 * 1923年(大正12年)10月20日 - 死去 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「舟木錬太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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