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船岡山の戦い : ウィキペディア日本語版
船岡山合戦[ふなおかやまがっせん]

船岡山合戦(ふなおかやまがっせん)は、永正8年(1511年8月23日室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦いである。応仁の乱の際に船岡山を巡って発生した戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。
== 開戦までの経緯 ==
明応2年(1493年)の明応の政変により将軍足利義材を追放し、自身が擁立した足利義澄(義高)のもとで絶大な権力を誇った管領細川政元であるが、実子がいなかったため3人の養子を迎えたものの、後継を巡り養子同士(細川澄之、細川澄元、細川高国)3派での権力争いが発生した。
永正4年(1507年)6月23日に澄之派の重臣香西元長薬師寺長忠らによって政元が暗殺永正の錯乱)、澄元と側近の三好之長も屋敷を襲われ、一旦近江甲賀郡に逃走するが国人の力を借りて勢力を盛り返し、8月1日には京都に侵攻して澄之・元長・長忠を討ち取り、翌2日には義澄に対して細川氏の家督継承を承認させたが、これが本格的な内乱の幕開けとなった(両細川の乱)。
細川氏の混乱に乗じ、京都への復帰をもくろんだ前将軍足利義尹(義材)が、周防の戦国大名大内義興を伴い上洛を開始すると、これに細川氏家督の奪取を企てた細川高国が呼応し永正5年(1508年)に挙兵、義澄は近江の岡山城に、それを担ぐ澄元・之長は近江から最終的には阿波へそれぞれに逃亡した。戦いに勝利した義尹は義稙と改名して将軍に復職し、高国と大内義興の連合政権が成立した。
再起を図っていた義澄・澄元は永正6年(1509年)に復権を図ったものの敗北(如意ヶ嶽の戦い)、力を蓄え2年間息を潜め、永正8年(1511年)に畿内の諸勢力を糾合し反撃して京都を奪還、義稙達を一旦は丹波に逃亡させた。しかし、義稙達は次第に勢力を盛り返し、京都に再度迫りつつあった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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