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船村 徹(ふなむら とおる、1932年6月12日 - )は、日本の作曲家・歌手。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。横綱審議委員会委員「日本会議」会員でもある。本名は福田博郎(ふくだ ひろお)。戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。 == 経歴 == 栃木県塩谷郡船生村(現塩谷町)出身。父親は獣医だった。栃木県立今市中学校(現・栃木県立今市高等学校)、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒。 大学在学時はまだ駐留米軍が数多くいた時代であり、船村は米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーを務めたこともあったという。大学在学時に、作詞家の高野公男と組み作曲の活動を開始した(高野は1956年に肺結核のため、26歳の若さで死去)。ただ、高野とともに、生活は困窮を極め、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。 1953年、雑誌「平凡」コンクール曲第一席「たそがれのあの人」がレコード化され、作曲家としてデビュー。 作曲家としての本格的な作品は「別れの一本杉」(歌・春日八郎・1955年発表)。その後も、「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」(歌・三橋美智也)などが連続ヒットした。 1956年、キングレコードからコロムビアレコードに移り、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」(歌・青木光一)が大ヒット。「王将」(歌・村田英雄)は戦後初のミリオンセラーを記録した。 1993年、日本作曲家協会理事長に就任し、1997年に吉田正の後を受けて第4代会長に就任、2005年に遠藤実へバトンタッチするまで務めた。 1995年、紫綬褒章受章、2002年、栃木県県民栄誉賞受賞、2003年、旭日中綬章受章、2008年、文化功労者、2014年、栃木県名誉県民。 妻は元歌手の能沢佳子、長男は作曲家・編曲家の蔦将包(つた まさかね)、長女は作詞家の真名杏樹、次女は元女優の福田渚子。 愛弟子は、男性歌手:北島三郎・鳥羽一郎・大下八郎・ムーディー松島・香田晋・静太郎・天草二郎・走裕介。女性歌手:森サカエ・森若里子である。このうち、松島・鳥羽・香田・静・天草・走は、船村宅に住み込み、師匠と寝食を共にした内弟子である。 作曲家として知られているが、「演歌巡礼」の活動の際、自ら歌唱する事もある。船村が自ら歌った作品を収めた「愛惜の譜」と言う通信販売限定のボックスCDも出ている。過去に数枚シングルも出している。 2015年4月27日には栃木県日光市に「船村徹記念館 日本のこころのうたミュージアム」がオープンした。同館は、鉄筋コンクリート3階建て、延べ約2800平方メートル。1階の「夢劇場」では、船村の生い立ちや活躍を、最新の映像技術で紹介する。2階には「王将」「みだれ髪」「兄弟船」など船村の代表作が聴けるメロディーボックスや、歌手らと船村とのエピソードを映像化したシアターを設置。3階は、レコードジャケットや交流のあった著名人らの手形などを展示するスペース、入場者が自分の歌う姿をDVDに収録できる「歌道場」と名付けたカラオケルームなどが設けられている。 また、同館のオープニングセレモニーには親交の深かった北島三郎や鳥羽一郎、舟木一夫、由紀さおり、大月みやこ、瀬川瑛子など多くの著名人が参加した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「船村徹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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