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芝山源内 : ウィキペディア日本語版
芝山宗綱[しばやまそうつな]

芝山 宗綱〔「柴山」とも記す。〕(しばやま むねつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称に源内、監物、初名は俊一。利休七哲の一人。
== 生涯 ==
出自は不明だが、一説に摂津国小部付近(現在の兵庫県神戸市北区)に勢力を持っていた向氏(橘遠保を遠祖とすると自称)の一族とされる〔他説に宇多源氏佐々木氏説、尾張国海東郡芝山の出自説などがある。〕。
はじめ石山本願寺の勢力下に属したが、荒木村重らと共に織田信長に接近した。天正6年(1578年)に村重が反旗を翻した際に、摂津国大和田城安部良成らと駐屯していたが、揃って村重の下を離れ信長に帰順し、信長から黄金を賜ったといわれる〔『信長公記』第十一巻より〕。のちに羽柴秀吉馬廻となり、軍目付などとして小田原征伐にも従軍し、天正16年(1588年)に後陽成天皇聚楽第を行幸した際に先導役を務めたとされる。のち、御咄衆として1万石を給せられた。
茶人としても知られ、千利休の高弟である利休七哲に数えられる。天正9年(1581年)には津田宗及山上宗二らを招いて茶会を行なっており、既に茶人として名が知られていたようである。利休とは懇意であったようで、長次郎作の名物黒楽茶碗「雁取」を贈られている他、現在確認されている利休の書簡のうち監物(宗綱)宛が一番多く、また利休最期の書簡も監物宛である。また、芝山型の手水鉢や芝山緞子などに茶道具にもその名を残している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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