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花山院家[かざんいんけ]
花山院家(かざんいんけ/かざのいんけ/かさんのいんけ)は、清華家の家格を有する公家。藤原北家師実流の嫡流に当たる。京極摂政藤原師実の次男家忠を家祖とする。家名は、家忠が舅から花山院第(東一条殿)を伝領したことによる。
== 概要 == 家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道。一条家の家礼。江戸時代の家禄は715石2斗余。内々。 家忠の子忠宗は権中納言に留まったが、その子忠雅が太政大臣、その子兼雅も後白河上皇の近臣として左大臣に至り、この頃に清華家としての家格が確立した。5代忠経には定雅・師継の2子があり、家系も二流に分かれる。有職故実に通じていた師継は『蝉冕翼抄』を著し、その子師信は後醍醐天皇竜潜の時の春宮大夫、その子師賢は後醍醐のために忠勤に励むが、元弘の乱の首謀者の1人として下総に流された。その孫で南朝に仕えた長親(耕雲)は学才に優れ、和歌・源氏物語の研究に業績を残した。なお、後小松天皇の後宮に入って一休宗純を生んだ南朝遺臣の女とは、この支流の出身である可能性がある。 一方で定雅以降の嫡流は北朝に仕え、父子相続を以て繁栄したが、13代忠定が後嗣なく没したため、南朝近衛家の子息を耕雲の猶子として相続させたという(『看聞日記』)。これが持忠であり、加冠の際に将軍足利義持から偏諱を受けた。その子政長は、姉の兼子が後土御門天皇の後宮に入ったためか、官位は急速な昇進を遂げ、従一位・太政大臣に昇っている。政長の跡は子の忠輔が継いだが、その子兼雄が出家したために後嗣なく、九条家から家輔を迎えて養子とした。ところが家輔にも後嗣なく、今度は西園寺家から家雅(定熙)を養子として入れた。定熙の後嗣には二男忠長を予定していたが、忠長が猪熊事件の関係者として勅勘を蒙ったため、五男定好が継いだ。江戸時代には、定誠が武家伝奏に、常雅・愛徳が議奏に補されている。 なお、支流として中山家・今城家・五辻家・烏丸家・鷹司家・野宮家の各家が興り、このうち五辻・烏丸・鷹司の3家は断絶したが、その他は廷臣として明治維新に及んでいる。これらの諸家を一括して花山院流と呼ぶ。1884年(明治17年)7月7日忠遠が侯爵を授けられた。現当主弘匡とその先代親忠はともに教諭から春日大社宮司へ転身した。菩提所は小塩山十輪寺。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花山院家」の詳細全文を読む
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