翻訳と辞書
Words near each other
・ 花山院兼定
・ 花山院兼雅
・ 花山院定好
・ 花山院定教
・ 花山院定教 (左近衛中将)
・ 花山院定教 (権大納言)
・ 花山院定誠
・ 花山院定雅
・ 花山院宣経
・ 花山院家
花山院家厚
・ 花山院家定
・ 花山院家忠
・ 花山院家教
・ 花山院家賢
・ 花山院家長
・ 花山院師信
・ 花山院師兼
・ 花山院師継
・ 花山院師賢


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

花山院家厚 : ウィキペディア日本語版
花山院家厚[かざんいん いえあつ]
花山院 家厚(かざんいん いえあつ、寛政元年3月28日1789年4月23日) - 慶応2年8月20日1866年9月28日))は、江戸時代後期の公卿。光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。父は右大臣花山院愛徳。母は内匠頭蜂須賀重隆の娘。子に右近衛少将花山院家威侍従花山院家正左近衛権中将花山院家理、梅(飛鳥井雅典室)などがいる。
寛政4年(1792年)に叙爵。以降清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従・右近衛権少将を経て、寛政10年(1798年)に従三位右近衛権中将となり、公卿に列する。その後も踏歌節会外弁や権中納言を経て、文化6年(1809年)恵仁親王(のちの仁孝天皇)の立太子に伴い、その春宮権大夫となる。文化11年(1814年権大納言に任じられる。文化14年(1817年)、皇太子恵仁親王の即位に伴い、春宮権大夫を辞職の上、退位して院政を開始した光格上皇の院執権に転じた。天保5年(1834年)右近衛大将・右馬寮御監に任じられる。弘化4年(1847年)には内大臣に任じられる。しかし同年任職を辞した。嘉永元年(1848年)には従一位を授与され、安政6年(1859年)には右大臣に任じられ、同年踏歌節会内弁を務めた。文久2年(1862年)に右大臣を辞した。
絵画にも造詣が深く、狩野派の絵画をよく描いたという。
==関連項目==

* 花山院家



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「花山院家厚」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.