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花町宮邦省親王[はなまちのみやくにみしんのう]
花町宮邦省親王(はなまちのみやくにみしんのう、正安4年(1302年)-天授元年9月17日(1375年10月12日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての皇族。式部卿。後二条天皇の第二皇子で、同母兄に邦良親王(後醍醐天皇皇太子)。号は花町宮(はなまちのみや)。子に花町宮廉仁王及び禅守(大僧正東寺長者)。
== 経歴 == 7歳の時に父が病死、続いて兄の邦良親王が叔父である後醍醐天皇の皇太子となるが、病弱であったために祖父の後宇多法皇によって邦良親王の身に万が一の事態が生じた場合に備えて後二条流の「第二の皇胤」と位置づけられた。元亨元年3月19日(1321年4月17日)、法皇の計らいで後醍醐天皇の内裏で元服が行われて三品親王に叙せられ、後見として左大臣である洞院実泰が付けられ、同年9月には大宰権帥に任ぜられた。だが、3年後に祖父の後宇多法皇が崩御、続いてその2年後に兄の邦良親王が逝去した。そのため、邦省親王と洞院実泰は親王の立太子を図ったが、当時の関東申次西園寺実衡はこれに反対して持明院統の量仁親王(光厳天皇)を鎌倉幕府に推挙し、その意向通りになった。量仁親王立太子の翌年嘉暦2年(1327年)には洞院実泰が薨去する。 嘉暦4年(1329年)、邦省親王は秘かに鎌倉幕府執権北条守時に量仁親王の次の皇太子に自分を擁立するように依頼する書状を送った。だが、幕府からこのことの相談を受けた後醍醐天皇は自己の退位につながりかねないこの動き(邦省親王が皇太子になるには、後醍醐天皇が退位して現在の皇太子である量仁親王の即位が必要となる)に反発して反対を申し入れたために失敗に終わる。しかも、その間に邦良親王の遺児である康仁親王が成長しつつあった。そして、元弘元年(1331年)の元弘の変によって後醍醐天皇が隠岐に流され、鎌倉幕府が光厳天皇(量仁親王)を即位させた時に皇太子に選んだのは、康仁親王であった。 時は流れ、建武3年(1336年)、後醍醐天皇の建武政権を破って、持明院統の光明天皇(光厳上皇の弟)を擁立した足利尊氏は、当初は鎌倉幕府の両統迭立の原則を守る事を名目として後醍醐天皇の皇子成良親王を皇太子に擁立するが、間もなく後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を開いたために、成良親王は皇太子を廃されて、代わりに益仁親王(光厳上皇の子、崇光天皇)が皇太子となった。正平3年(1348年)、光明天皇が皇太子に譲位すると知った邦省親王は室町幕府に対して両統迭立の原則に則って次の皇太子に自分を立てるように要望した。だが、幕府執事(後の管領)上杉重能の籌策(計略)によって握り潰された。重能は足利尊氏の弟直義の側近であり、皇統を北朝に一本化しようとする直義の意向を受けたものと考えられている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花町宮邦省親王」の詳細全文を読む
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