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花魁 : ウィキペディア日本語版
花魁[おいらん]

花魁(おいらん)は、吉原遊廓遊女で位の高い者のことをいう。18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある

他には、古語「おいらかなり」を語源とする説等がある。
源氏物語 若菜上
「見返り給(たま)へる面持(おもも)ち・もてなしなど、おいらかにて」
(振り返りなさった様子・所作などが、おっとりとしていて)


また、落語では
「狐や狸は、尾を使い化けたり人をだましたりするが、おいらんは尾がなくてもだませる。→尾(は)いらない→おいらんになったとする珍説が枕などで使われることがあるが、根拠のない俗説に過ぎない。
〕。
江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ〔藤田真一 関西大学文学部コラム 第41回『京都・角屋の文化 -学問の手伝えること-』 関西大学2006年1月27日。〕。また、吉原にも当初は太夫がいたが、宝暦年間に太夫が消滅し、それ以降から高級遊女を「おいらん」と称するようになった。今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。
下記に江戸時代の花魁について記述する。
== 概要 ==
吉原に遊郭ができた当初には、少数ではあるが江戸にも太夫がおり、その数は万治元年(1658年)の『吉原細見』によれば、太夫3人であった。またその下位の遊女として格子67人、局365人、散茶女郎669人、次女郎1004人がいた。江戸時代後期の安永4年(1775年)になると、吉原細見には散茶50人(内、呼出し8人)、座敷持357人(内、呼出し5人)、部屋持534人など(総計2021人)となっている〔石井良助『吉原』P122 127〕
別書によると、寛永20年(1643年)に18名いた吉原の太夫は、延享元年(1744年)には5名に、寛延4年(1751年)には1名に減り、宝暦(1751-1763年)の終わりごろには消滅した〔The nightless city, or, the "History of the Yoshiwara Yūkwaku" Joseph Ernest De Becker(小林米珂)、1899〕、
花魁は、、引手茶屋を通して「呼び出し」をしなければならなかった。呼び出された花魁が禿や振袖新造を従えて遊女屋と揚屋引手茶屋の間を行き来することを滑り道中(後に花魁道中)と呼んだ。
花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的に古典書道茶道和歌三味線囲碁などの教養、芸事を仕込まれていた。
花魁を揚げるには莫大な資金が必要であり、一般庶民には手が出せないものであった(花魁の側も禿や新造を従え、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した)。人気の花魁は『遊女評判記』などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった。浮世絵に描かれている花魁は、実際には付けるのが不可能なくらい多くのかんざしを付けて、とても豪華な姿で描かれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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