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花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある 〔 他には、古語「おいらかなり」を語源とする説等がある。 源氏物語 若菜上 「見返り給(たま)へる面持(おもも)ち・もてなしなど、おいらかにて」 (振り返りなさった様子・所作などが、おっとりとしていて) 〕 〔 また、落語では 「狐や狸は、尾を使い化けたり人をだましたりするが、おいらんは尾がなくてもだませる。→尾(は)いらない→おいらんになったとする珍説が枕などで使われることがあるが、根拠のない俗説に過ぎない。 〕。 江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ〔藤田真一 関西大学文学部コラム 第41回『京都・角屋の文化 -学問の手伝えること-』 関西大学、2006年1月27日。〕。また、吉原にも当初は太夫がいたが、宝暦年間に太夫が消滅し、それ以降から高級遊女を「おいらん」と称するようになった。今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。 下記に江戸時代の花魁について記述する。 == 概要 == 吉原に遊郭ができた当初には、少数ではあるが江戸にも太夫がおり、その数は万治元年(1658年)の『吉原細見』によれば、太夫3人であった。またその下位の遊女として格子67人、局365人、散茶女郎669人、次女郎1004人がいた。江戸時代後期の安永4年(1775年)になると、吉原細見には散茶50人(内、呼出し8人)、座敷持357人(内、呼出し5人)、部屋持534人など(総計2021人)となっている〔石井良助『吉原』P122 127〕 別書によると、寛永20年(1643年)に18名いた吉原の太夫は、延享元年(1744年)には5名に、寛延4年(1751年)には1名に減り、宝暦(1751-1763年)の終わりごろには消滅した〔The nightless city, or, the "History of the Yoshiwara Yūkwaku" Joseph Ernest De Becker(小林米珂)、1899〕、 花魁は、、引手茶屋を通して「呼び出し」をしなければならなかった。呼び出された花魁が禿や振袖新造を従えて遊女屋と揚屋・引手茶屋の間を行き来することを滑り道中(後に花魁道中)と呼んだ。 花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれていた。 花魁を揚げるには莫大な資金が必要であり、一般庶民には手が出せないものであった(花魁の側も禿や新造を従え、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した)。人気の花魁は『遊女評判記』などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった。浮世絵に描かれている花魁は、実際には付けるのが不可能なくらい多くのかんざしを付けて、とても豪華な姿で描かれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「花魁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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