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若ノ城宗彦[わかのじょう むねひこ]
若ノ城 宗彦(わかのじょう むねひこ、1973年4月13日-)は、沖縄県那覇市出身の元大相撲力士。間垣部屋所属。本名は阿嘉 宗彦(あか むねひこ)。身長191cm、体重157kg。得意技は右四つ、上手投げ。最高位は西前頭6枚目(1998年3月場所)。〔大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709〕〔若ノ城、念願の新入幕 琉球新報 1997年8月25日〕 == 来歴 == 沖縄尚学高校時代は柔道部に所属しており、1年次からレギュラーとして活躍。2年次に全国高等学校柔道選手権大会の団体戦で優勝。〔しオリンピックの柔道代表候補と言われた。柔道の活躍を引っさげ、間垣部屋に入門。1992年1月場所に初土俵を踏んだ。その後、幕下上位で苦労した時期もあったが、とんとん拍子で番付を上げていき1995年9月場所に十両に昇進した。新十両の場所は12勝3敗で十両優勝。その後、糖尿病が再発し2年間十両で足踏みしたが1997年9月場所に千代大海らと共に新入幕を果たし、幕内定着を成し遂げた。沖縄県から史上3人目の幕内力士となったということもあって入幕当初は沖縄県の相撲関係者から大いに祝福され、三役昇進も期待されていた。〔しかし幕内上位まで番付を上げた矢先に糖尿を悪化させ、十両に陥落した。十両に下がっても自分の相撲が取れなくなり、2000年5月場所には幕下に陥落。翌7月場所に十両に復帰したが2場所で再び幕下に陥落した。2001年1月場所には、勝ち相撲で右膝関節の負傷し休場が続いた。三段目に陥落することもしばしばあったが、健闘ぶりを見せていた。一時は幕下上位に復帰したが2003年1月場所からは6場所連続負け越しが続き、2004年1月場所には序二段まで陥落。この1月場所の6番相撲では平成以降2例目となる掴み投げでの白星を記録している。〔若ノ城以前に大露羅が序二段の地位で掴み投げでの白星を記録しており、若ノ城に続いて荒闘司が序二段で記録した。〕5月場所にはついに幕内経験者の最低地位西序二段79枚目まで番付を下降させた(後に元前頭13枚目の鳥羽の山が西序二段90枚目まで陥落している)。初日の相撲で白星を挙げたのを最後に現役を引退した。引退後は準年寄・若ノ城の後、年寄・西岩を襲名し、後進の指導に当たった。2007年5月場所後に日本相撲協会を退職し、現在は高校の先輩である元広島東洋カープ・投手の安仁屋宗八の紹介により、プロ野球マスターズリーグのディレクターを勤めている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若ノ城宗彦」の詳細全文を読む
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