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若井ぼん・はやと[わかいぼん はやと] 若井ぼん・はやと(わかいぼん・はやと)は、昭和期に活躍した漫才コンビ(若井はんじ・けんじ門下)。元松竹芸能所属。 若手の頃、横山やすし・西川きよしのライバル的存在であった。 == 来歴 == 共に大阪市南区の出身で、高校の同級生だった。ぼんの実家は貧乏で子供のころから目立ちたがり屋。中学2年のときに朝日放送・中田ダイマル・ラケット司会の「お笑い街頭録音」に出演したりしていた。のちに中学の同級生とABCラジオの「漫才教室」に出演、その後も生活費のために素人参加型の演芸番組に出演〔当時出演、優勝すると景品や商品、賞金などが貰えた。〕。また、はやとも実家は貧乏であった(ぼんによると戦争もとっくに終わっていたのに防空壕のようなところに家族で住んでいた、また家財道具も一切なく空の缶詰が鍋茶碗がわりだったという)。ぼんが高校ではやとと出会い意気投合し、はやとは高校2年のときに学費が払えなくなり、2人で高校中退し、漫才作家の足立克己の紹介で松竹芸能入りし、1962年に若井はんじ・けんじに門下になり新世界の新花月にてデビュー。当初用意されていたコンビ名は「若井ぼーと・はやと」であったが新聞に間違えて「ぼん・はやと」と書かれてそのままコンビ名になった。「ぼんくらやからぼん」やとか、「ぼんぼんやからぼんや」など後付けしていた。また「茶チル・プリン」という候補もあった。 主に角座の舞台などで活躍し、「しっつれいしました」などのギャグや、ぼんの出っ歯を売りにしたハーモニカの芸で、中堅漫才師としてキャリアを積んでいく。「お笑いネットワーク」などにも出演し人気を博くすも、角座閉鎖(1984年)により活躍の場が失われ、翌年1985年に解散。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若井ぼん・はやと」の詳細全文を読む
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