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若松 孝二(わかまつ こうじ、1936年4月1日 - 2012年10月17日)は、日本の映画監督、映画プロデューサー、脚本家。宮城県出身。本名は伊藤孝(いとう たかし)。 == 経歴・人物 == 宮城県遠田郡涌谷町出身。農業高校二年時中退、家出し上京。職人見習いや新聞配達、ヤクザの下働きなどを経験。1957年、チンピラ同士のいざこざから逮捕され、半年間、拘置所に拘禁され執行猶予付の判決を受ける。その時の経験により後に監督デビュー作の『甘い罠』は”警官を殺すために映画監督になった”と豪語した通りに警官殺しの映画になっている。 その後、職を転々としテレビ映画の助監督になる。ある現場でシナリオの改変に腹を立ててプロデューサーを殴り、その場でクビになる。その後ピンク映画の企画が巡って来た事が転機となり、1963年にピンク映画『甘い罠』で映画監督としてデビュー。低予算ながらもピンク映画としては異例の集客力をみせた。若松は「ピンク映画の黒澤明」などと形容されヒット作を量産する。若松孝二の映画作りの原点は“怒り”であり反体制の視点から描く手法は当時の若者たちから圧倒的に支持される。 1965年「若松プロダクション」を創設、足立正生や大和屋竺などの人材が集まる。作品は学生運動を行っていた若者たちなどから支持を受けたが、若松自身は「学生運動を支持するために映画を作ったことはなかった」と語っている〔東京大学立花ゼミ「見聞伝」 〕。自分自身が面白いと思った映画を撮っているとのこと。のちに『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮影した時は、前売り券の購入を昔の学生運動家に頼んだものの全く買ってくれなかったという〔DVDでーた 〕。 若松作品は海外での評価も高い〔Harvard Film Archive 〕。元ソニック・ユースのジム・オルークは若松の映画音楽を作りたいがために日本語を習得した〔電藝 〕。 プロデュース作品としては、大和屋竺監督『荒野のダッチワイフ』(1967)、足立正生監督『女学生ゲリラ』(1969)、大島渚監督『愛のコリーダ』(1976)、神代辰巳監督『赤い帽子の女』(1982)等がある。 音楽ビデオクリップとしては唯一、ソウル・フラワー・ユニオンを手がけたことがあり、1998年、アイルランドにて「イーチ・リトル・シング」と「風の市」を撮影している。 時に役者として出演することもある。また、名古屋のミニシアターシネマスコーレを自ら経営。 連合赤軍をテーマにした作品『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007)は、2007年8月の湯布院映画祭にて「特別試写作品」として上映。2007年10月には、第20回東京国際映画祭にて「日本映画・ある視点 作品賞」を受賞した。同年12月に、若松が設立した映画館〔中日新聞 〕「シネマスコーレ」(名古屋市)で公開され、2008年3月から全国で公開された。2008年2月に開催の第58回ベルリン国際映画祭において最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)と国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)を受賞。毎日映画コンクールで監督賞、日本映画評論家大賞で作品賞を受賞した。ロングラン上映後、DVDが発売された。 2010年公開は、寺島しのぶ主演『キャタピラー』(8月14日より全国各地の映画祭などで上映)。撮影期間は12日間、スタッフ数は11人。日本での公開を前に、2010年2月20日、主演の寺島がベルリン国際映画祭の主演女優賞を受賞した〔Movie Collection 〕。観客は「戦争がただの殺し合いでしかない現実」と、「生の根源であるセックス」に引き込まれていたという。国内では11月に「第2回TAMA映画賞」特別賞を受賞。12月には新藤兼人賞・SARVH賞2010の最優秀プロデューサー賞である「SARVH賞」を受賞した。授賞式で「尊敬する新藤監督とこのような形でお会いする事が出来て、本当にうれしい。これからも自分の映画を撮れるように頑張ります」と述べた。 2012年には三島由紀夫(三島事件)をテーマとして、楯の会結成(1968年)から自決までを描く『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』、続けて船戸与一原作の『海燕ホテル・ブルー』を制作〔Sponichi Annex 〕。また同年には中上健次原作、寺島しのぶ主演で『千年の愉楽』を制作し、2013年春の公開を控えていた。 2012年10月12日午後10時15分ごろ、東京都新宿区内藤町の横断歩道のない都道を横断中、左から来たタクシーにはねられて腰などを強く打った。当初の報道では命に別状はないとされていたが、実際には病院搬送時から意識不明の状態が続いており〔若松プロダクション公式twitter 2012年10月18日14:05 2012年10月18日閲覧〕〔若松孝二監督、事故直後から意識不明「事実と異なる報道に混乱」 楽天woman 2012年10月18日閲覧〕、17日午後11時5分、入院先の病院で死去した〔若松孝二監督が死去…12日、タクシーにはねられ入院 報知新聞 2012年10月18日閲覧〕〔映画監督:重傷の若松孝二さん死去 タクシーにはねられ 毎日新聞 2012年10月18日閲覧〕。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「若松孝二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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