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若槻禮次郞 : ウィキペディア日本語版
若槻禮次郎[わかつき れいじろう]

若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、慶応2年2月5日1866年3月21日) - 昭和24年(1949年11月20日)は、日本大蔵官僚政治家栄典正二位勲一等男爵。旧姓は奥村幼名源之丞克堂。新字体にて若槻 礼次郎(わかつき れいじろう)と表記されることもある〔学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書では歴史人物名の表記として「若槻礼次郎」、存命当時の『職員録』などでは「若槻禮次郎」、御署名原本における署名も「若槻禮次郎」(但し「禮」は草書体)である。〕。
貴族院議員、大蔵大臣(第1820代)、内務大臣(第4142代)、内閣総理大臣(第2528代)、拓務大臣第4代)などを歴任した。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
松江藩の下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男として生まれる。
実母・クラは禮次郎が3歳の頃急死した。この頃、長男の譲は、父・仙三郎とともに藩命で京都に近い淀川沿いの山崎で勤務をしていたので、奥村家では11歳のイワが3歳の礼次郎の世話をしながら内職をし、かつ留守番を務めていた〔豊田『宰相・若槻礼次郎』173頁。〕。
奥村家は足軽の中でも格式の低い家で、雑賀町の中央に近いところに家を構えることもできず、場末ともいうべき外(はず)れの方の借家に住んでいたが、礼次郎が生まれてから間もなく父・仙三郎は西田中というところに小さな家を新築した〔。
奥村家は極めて貧乏だったため、内職のようなことをして、ようやく生活していた。幼少の頃はまだ帯刀であり、礼次郎は木刀一本を腰に差して寺子屋に通った〔若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「私の幼少の頃はまだ帯刀であった。私は数え年七つの時、寺子屋に入ったが一本を腰に差して通ったことを覚えている。しかし、それは抜けない木刀であった」という。〕。
小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後にやめて教員伝習校内変則中学科に入る。しかし家が貧乏で、学資が続かず在学8~9ヵ月にして中学を辞め、しばらくは山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをしていた。
16歳のころから3年程、小学校代用教員をする。明治15年(1883年)、陸軍士官学校の生徒募集があった。官費で学資がいらないということから受験したが、体格検査ではねられた。
その翌年、司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思いであったが、試験場は東京まで出て行かなければならない。しかしその費用がなかったので、能義郡長をしていた叔父・若槻敬に相談し、30円の金を借りて、明治16年(1884年)7月頃、数えで19の年に松江を出た〔『若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 18-25頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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